「武田信玄射殺説」信玄が鉄砲に当たって死んだという噂に、家康はどうした?

家康・信長との全面戦争に舵を切った信玄

 元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄が三河の徳川家康領に攻め込んだ。武田将士は、四如の旗と呼ばれる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の武田の本陣旗が、冬の風を受けて暴れんばかりに翻るのに、胸を高鳴らせていただろう。

 それまで信玄と仲良くしようと苦慮していた織田信長にすれば、寝耳に水であった。信長は将軍・足利義昭とともに、信玄が越後の上杉謙信と停戦して講和するよう使者を往還させて、その和睦に尽力していた。

 ところが信玄は途中で、「信長ではなく、越前の朝倉義景が言うのなら和睦してやっても構わない」と言い出して、交渉を断ち切らせた。朝倉義景は織田信長と敵対する大名である。あまりの無理難題に、信長は空いた口が塞がらない思いだったのではなかろうか。

 ともあれ徳川侵攻の知らせを聞いた信長は、元亀3年(1572)11月20日付上杉謙信宛書状において、信玄を「【意訳】侍の義理を知らない恥知らず」と吐き捨て、「当然、義絶するつもりです」と伝えた。そして「(信玄とは)もう永遠気に仲直りを考えません」とまで言い切った( 『織田信長文書の研究』三五〇号文書)。ここに信長と家康が、武田家と共存していくルートは消えてしまった。双陣営は後に引けない全面戦争に進むこととなったのである。

 武田軍は家康の遠江・三河と、信長の美濃に侵攻を開始した。特に三河では12月22日に家康との三方ヶ原合戦に勝利し、徳川家を滅亡寸前に追い込んだ。

 この勝利に気をよくした武田軍は、「家康さえ滅ぼせば、信長には100日と手間取らない」と豪語して戦意を高揚させたという(『甲陽軍鑑』品第三九)。

 武田軍の本陣に「天上天下唯我独尊」の軍旗が掲げられた。

武田軍の動向を謙信に伝えていた家康

 逼塞する徳川軍をより追い詰めようと、信玄は三河の野田城を攻めた。

 元亀4年(1573)に比定される次の徳川家康書状写がある。
就参(三河)・遠(遠江)模様及一翰候、仍去此者御使者重而飛脚本望候、 仰(武田)信玄于今(設楽郡)野田居陣候、追而以権現堂(叶坊光播) 可申述候条、不能細筆、恐々謹厳、
   二月十六日 御名乗(徳川家康)御書判
    上椙(謙信)殿
『愛知県史』八六四号文書 徳川家康書状写 古文書・記録御用所本
 謙信のもとへは、このように信玄の動向は信長と家康から詳しく伝えられていたようで、本文中からは武田信玄が野田城を攻めるべく布陣していることが記されているものの、詳細は叶坊光播が述べるので「細筆 能あたわず」と、細かいこと(具体的なこと)は筆にしないと重要事項を略すことが記されている。

 家康がここに書かなかった重要な情報は、ほかの一次史料に探し出せないが、信頼度の高い二次史料の中には気になる記述をしているものもある。

 武田方の『甲陽軍鑑』と徳川方の『松平記』である。

 ただこの書状の日付である2月16日は後世史料で野田城方面にてある騒動があった日とされている。

 元和年間成立の武田遺臣の手による『甲陽軍鑑』品第三九に、
「(三河長篠で徳川家康と人質を交換して)其後(そのあと)信玄公 御煩(おわずらい)悪く御座候て二月十六日に御馬入、家康家・信長家誰人の さた(沙汰)に信玄公野田の城をせむるとて鉄炮にあたり死に給ふと沙汰仕る、みな虚言也」
『甲陽軍鑑』品第三九
と伝わっているのである。

 徳川・織田の陣中で、野田城を攻めている武田信玄が、鉄炮の銃撃を受けて死んでしまったという噂が広がったというのだ。しかし『甲陽軍鑑』の作者はこれを「みな虚言」であると言い切っている。信玄は前々から体調を悪くしており、それがここで悪化したに過ぎないという主張である。

家康が詳細を筆に記さなかったワケ

 次にもう一つの二次史料を見てみよう。

 慶長年間成立の徳川家臣の手による『松平記』巻四に、野田城を攻めている武田軍に城兵が応戦して、「信玄鉄炮にあたり給ふ」ことが伝わっており、どうもこれを真実視しているようである。虚実どちらであるかを確認するより先に、家康の耳にも入れられたことだろう。新鮮な情報と対応は、有事において重要である。拙攻は巧遅に勝るのだ。

 家康にすれば、信玄入道が死んだとなると、こんなありがたいことはない。事実とすればこれ以上の好奇はない。しかしどうすればいいか。こちらから仕掛けたとして、万が一誤報であったら、三方ヶ原合戦の比にならない反撃を受けるだろう。そうなれば、自身はもちろん息子の松平信康、酒井忠次や石川数正らの老臣たちも戦場に屍を晒されることになろう。

 現在、信玄にはこれまで家康と信長が滅私奉公の思いで支えてきた将軍・足利義昭も味方している。一同の首は義昭の目にかけられて、敗者たる徳川家は逆賊の汚名を末代まで残すことになるだろう。

 そこで家康は考えたと思われる。謙信に動いてもらうのだ。

 越中攻めに向かっている謙信が、もしここで武田領の信濃を脅かせば、信玄の生死がはっきりと見えてくるに違いない。ただし家康の使者は、謙信に「信玄が鉄炮に当たったかもしれない」という未確証の情報を伝えるにおいて、書面に認めてしまうと確報と誤解されてしまう恐れがあり、もし誤伝であったなら謙信からその不注意を咎められてしまうことになる。だから、詳細を筆に記さず、使者を通して口頭で述べさせることにしたのだろう。

 この時点では、謙信が信玄の死を信じた形跡を見出せない。謙信も慎重に見たのであろう。信玄の計略である恐れもあるからだ。

英雄名将の死

 事実がどうあれ信玄は在陣することができないほどの重態となり、同年4月12日、帰国途中に死去した。野田の鉄炮騒動から2ヶ月近く経っているので、銃撃で致命傷を負った結果ではなく、もともとの病気が原因で亡くなったのだろう。

 伝承によると、信玄死去の確報を得た謙信は、その場で力を落とし、「信玄は、世に稀なる英雄名将なりしに、残多く情なき事なり」と数行の涙を落とした(『太祖一代記』)という。

 余談ながら、その謙信が病気で亡くなった時、信長も
「謙信死去の事、是非なき次第に候、道(てだて。方策)をもって相果たすべき候ところ、残多く候」
『織田信長文書の研究』七七四号文書
と、謙信の死を惜しむ声を漏らしている。

 自分の手で倒せなかった強敵の死は、例えそれがどれだけ憎たらしく、恐ろしい相手であったとしても、胸のうちに言葉に尽くしがたい思いが寄せてくるのだろうか。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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