武田信玄の名言・逸話49選

桜ぴょん吉
 2022/03/22
武田信玄公像2

武田信玄は甲斐国(山梨県)を本拠とし、戦国最強とも言われる軍団を率いた戦国大名です。その強さは、川中島で軍神・上杉謙信と互角以上に戦い、徳川家康を蹴散らし、織田信長も恐れたほどで、「風林火山」の旗印のもと戦国時代を駆け抜けました。

領国統治も巧みな名君である信玄は、江戸時代から現代にかけて、長く地元で愛されてきました。今回はそんな武田信玄の逸話の数多くをまとめてみました。

※武田信玄は元服時に「武田晴信」、のちに出家して「武田信玄」と名乗ります。ただし記述が複雑になるため、本記事での表記はもっともよく知られている「武田信玄」で統一します。上杉謙信など、他の登場人物もこれにならいます。

幼少期

父親が戦に勝った日に誕生(0歳)

大永元(1521)年、武田信玄は要害山城で生まれた。その日、父親の信虎が今川軍との戦に勝利したので、それにちなんで「勝千代」と名付けられた。(『甲陽軍鑑』)

信玄生誕地は要害山城のほか、ふもとの積翠寺という説もあります。

この時、今川軍は甲府盆地にまで攻め込んでおり、本拠地の躑躅ヶ崎館(現・武田神社)も危険だったため、家族は館の北にある山中に避難していました。

上杉氏の息女を娶る(12歳)

天文2(1533)年、武田信玄は、扇谷上杉朝興の娘を正室に迎えた。彼女は翌年妊娠したまま亡くなったという。(『妙法寺記』)

信玄は天文5(1536)年の元服とともに三条公頼の娘(三条夫人)を継室に迎えます。

馬鹿なふりをする?

武田信虎は、生意気な信玄を疎んじ、弟の信繁を愛した。信玄はある時からいかにも間抜けな格好をし、馬に乗れば落ち、用事を言いつけられれば故意に怠けるなど馬鹿のふりをした。(『甲陽軍鑑』)

父親への抗議か、精神的安定を保つための行動か、伝説中の信玄少年の気持ちは複雑なところがあったのでしょう。

ちなみに、弟の武田信繁は信虎追放後も信玄をよく補佐し、第四次川中島の合戦で討死するまで武田家をよく支える名将になりました。

元服~信濃侵攻まで

初陣で城を一夜で落とす?(15歳)

天文5(1536)年年末、武田信玄は武田信虎とともに海ノ口城を囲った。守りは固く、信虎は攻略を諦めて兵を引き上げた。帰り道、城兵が油断していると判断した信玄は、自部隊だけで引き返して城を落とした。(『甲陽軍鑑』)

有名な話ではありますが、当時の手紙や日記には記載がなく、創作とされています。

海ノ口で餅をつかない家がある

海ノ口で、暮れに餅をつかない家がある。理由は、武田軍が引き返したと思って油断をしていたら、引き返してきた信玄に城をとられてしまったから、その戒めとして、現代でも餅をつかないのだという。(『長野県史』)

父親を追い出し家督相続(20歳)

天文10(1541)年、武田信虎は娘婿の今川義元を表敬訪問した。武田信玄は足軽を派遣して国境を閉ざし、信虎が帰国できないようにして、武田家の家督を奪った。(『勝山記』ほか)

戦国時代には珍しい無血クーデターです。

クーデターの原因として、信虎が悪逆非道な性格だったとか、信玄をさしおいて弟の信繁を寵愛したからとか、様々な説があります。

近年の研究では、信虎が推進した軍事制度があまりに先進的で村々がついてゆけず、民衆に不満がたまっていたことが原因の1つではないか、と言われています。

愛読書『論語』を読まなくなる(20歳)

武田信玄は、父親の追放を生涯忘れず、それ以来、愛読書であった『論語』を読まなくなったという。(『甲陽軍鑑』)

孔子の「孝」の話は耳に痛すぎたのでしょう。

実は信玄より長生きだった信虎

甲斐を追放された信虎は、その後各地を遊歴し、信玄死去の翌年・天正2(1574)年まで生きた。81歳の長寿である。

追放の2年後には石山本願寺や高野山、興福寺などを遊歴し、公家と交流するなど精力的に活動している。(『天文日記』ほか)

信玄死後は息子(信玄の弟)の武田信廉の高遠城に身を寄せて、孫の武田勝頼とも対面したという。(『甲陽軍鑑』)

諏訪氏を滅ぼし、諏訪御寮人を側室にする(21歳)

諏訪を治める諏訪頼重は、同盟国の武田家に通告することなく、抗争中の上杉憲政と単独講和を結んでしまった。これに怒った信玄は諏訪に攻め込み、頼重を切腹に追い込んだ。

信玄に味方した諏訪一族とは、新しい当主に諏訪寅王丸を据えると約束していたが、信玄はそれを反故とし、かわりに頼重の娘(諏訪御寮人)を自分の側室とし、生まれた男児に諏訪氏を継がせるとした。(『高白斎記』ほか)

なお、諏訪寅王丸は武田信玄の甥(母が信玄の妹)に当たります。

ちなみに、諏訪御寮人は新田次郎『武田信玄』では湖衣姫、井上靖『風林火山』では由布姫との名前で登場しています。双方とも史実の名ではなく、小説家の創作による名づけです。

『甲州法度之次第』を定める(26歳)

天文16(1547)年5月、武田信玄のもとに新たな法律『甲州法度次第』の草案が家臣の駒井高白斎らから届けられる。その後推敲をし、6月1日に正式な分国法として発布された。(『高白斎記』)

内容としては今川家の『今川かな目録』と似た条文が見られ、制定に際し参考にしていたと指摘があります。

なお天文23(1554)年にも追加法が制定されています。

村上義清との戦に負けてショックを受ける(27歳)

天文17(1548)年2月、武田信玄は信濃の村上義清と上田原で戦った。武田軍は大敗を喫し、信玄自身も負傷した。

はじめての大敗で、なかなか甲府に帰ろうとしなかったが、生母の勧告で翌月にやっと帰宅した。(『高白斎記』)

信玄唯一の作戦ミス・砥石崩れ(29歳)

天文19(1550)年、武田信玄は信濃統一を目指し、村上義清の砥石(戸石)城を攻めた。城はなかなか固く、落城する気配はない。

信玄は諦めて撤退の指示を出すが、武田軍の背後を、砥石城救援に来た村上義清の大軍が襲った。信玄は多数の兵と有能な家臣を失った。(『甲陽軍鑑』ほか)

『甲陽軍鑑』によると、この「砥石崩れ」と呼ばれる大敗が信玄生涯で唯一の、作戦ミスによる敗戦だそうです。

信玄は翌年、改めて村上義清を攻めます。今度は連勝を重ね、村上義清は上杉謙信を頼って越後に逃げ込みます。それにより、謙信が北信濃奪取を目指して軍事行動を起こしてしまいます。

甲駿相三国同盟の締結(31~33歳)

天文21(1552)年、武田信玄の嫡男・義信が、今川義元の娘(生母が信玄の姉)を娶り、武田・今川間の同盟が強化された。(『妙法寺記』)

天文23(1554)年、武田信玄の娘が、北条氏康嫡男・氏政に嫁ぎ、武田・北条の同盟が強化される。あわせて、北条氏康の娘が、今川義元の嫡男・氏直に嫁ぎ、甲駿相三国の軍事同盟が成立した。(『相州兵乱記』ほか)

三勢力が同盟を結んだ背景には、関東での戦闘で利害関係が複雑化したことや、これまでもお互いに和議の仲裁をしていたことなどがあります。

これにより、それぞれが背後を気にせず戦ができるようになったので、武田・今川・北条は大勢力に成長してゆきます。

第二次川中島の戦い、今川義元の仲裁で停戦(33歳)

天文23(1554)年、北信濃回復を請け負った上杉謙信と再び対峙する。

信玄は調略により地元の豪族たちを寝返らそうとしたが、察知した謙信が出陣をし、4月から閏10月まで7か月にわたってにらみ合った。最終的に、今川義元が講和斡旋に乗り出して陣を退いた。(『勝山記』他)

第四次川中島の戦い

永禄4(1561)年8月、武田信玄は信濃国川中島で上杉謙信と激突します。この戦が有名な「第四次川中島の戦い」です。

第四次とある通り、両軍はこれまでも川中島付近で多数小競り合いを繰り返していました。しかし、武田信玄はひたすら上杉謙信との決戦を回避し、全面的な戦闘になることはありませんでした。

しかしこの時はいささか事情が異なります。

二木謙一氏の指摘によると、上杉謙信が関東管領になったことで、北関東の豪族の中には謙信方に寝返る者が多数出てきていたそうです。関東管領は既に有名無実となっていますが、謙信が名乗ることの影響を看過できなくなった信玄が、ここで一度決戦を挑み、実力を周囲に知らしめようとし、あの激戦に至ったとの事です。

川の水音を止める?

武田信玄は、川中島に向かう途中、大門峠で家臣をあつめて軍議を開いた。近くを流れる川の音がうるさくて作戦がまとまらないので、信玄は川のそばに行って「しずまれ!」と一喝した。そのとたん音がピタリと止まり、おかげで作戦がまとまったという。(『諏訪史』)

その川は現在の音無川にあたるそうです。

啄木鳥の戦法?

武田信玄は、上杉謙信が布陣する川中島の妻女山付近に陣を敷く。そのまま両軍にらみ合いが続いたので、信玄は軍勢2万を2つに分け、別動隊1万2千で謙信の背後をつき、出て来たところを本隊8千とで挟撃する「啄木鳥の戦法」を実行することにした。(『甲陽軍鑑』)

上杉謙信と一騎打ち?上杉家家臣と?信玄は影武者?

『甲陽軍鑑』によると、上杉謙信が武田信玄本陣に斬り込んできて、信玄は軍配で彼の太刀を受け止めた、という。

『上杉家御年譜』では、武田軍の敗走中に五人の武者が信玄本陣に突入し、そのうち荒川伊豆守が信玄に斬りかかったとする。

『川中島五箇度合戦記』では、謙信が襲ったのは信玄の影武者とする。

こうなるともう何が何だか分からない状況ですが、おそらく乱戦だったこと・両軍本陣も戦ったこと・もしかしたら両軍大将付近にも敵軍が迫っていたこと、は感じ取れます。

山本勘助という存在

山本勘助(勘介・菅助)は、『甲陽軍鑑』によると、三河牛窪の出身で、日本中を流浪した剛の者である。容貌は隻眼で手足も不自由に見え、色黒の醜い男だったという。だが信玄は「それでも全国に知られているならよほどの者だ」と、彼を高禄で召し抱えたという。

一方、『武功雑記』によると、山本勘助は武田家の重臣・山県昌景が召し使っていた小者で、軍師ではないという。

武田信玄治世期に、武田家に「山本菅助」という人物がいたことは確かでしょうが、彼に軍略の才能があったかどうかは、まだ検討の余地がありそうです。

三国同盟の破綻

永禄3(1560)年、今川義元が織田信長に討たれ、三国同盟の一角が崩れます。これを機に、武田信玄はさらなる勢力拡大を図り、裏工作を続けます。

武田勝頼の正室に織田信長の養女を迎える(44歳)

永禄8(1565)年、武田信玄は、織田領の美濃と境界を接することを踏まえて、織田信長の養女を武田勝頼の正室に迎えて、婚姻同盟を結んだ。(『総見記』ほか)

この女性は間もなく病死し、信玄は自身の娘と信長嫡男・信忠の婚約を進めています。

反織田派のクーデターが露見し、重臣や嫡男を処分する(44歳)

武田信玄と織田信長の同盟に際して、今川家との関係は悪化した。

今川家の娘を妻にしている武田義信や彼に親しい重臣は、武田信玄を廃して義信を跡目につけようとしてクーデターを計画したが露見し、武田義信は幽閉、飯富虎昌らは処刑された。(『甲陽軍鑑』)

平山優氏によると、武田義信は武田信玄と意見が合わないことが増え、更に異母弟の武田勝頼が織田家と結んで力をつけるのではないか、という不安があったことも原因だろうと指摘しています。

武田義信は2年後の永禄10(1567)年秋、東光寺で自害します。

塩が止められる?(44歳)

永禄10(1567)年8月、今川氏真は武田領国への塩の売買を禁止した。(『静岡県史』)

通説では、武田信玄が北条氏との同盟を破って侵攻したことで、北条家と今川家が手を組んで塩を止める、という内容が一般的です。しかし史実で確認できる「塩留め」は今川家単独です。

平山優氏は、今川家の「塩留め」は武田家内の親今川派抑え込みに対抗して行われた外交的駆け引きの1つだったのでは、と指摘しています。

駿河に侵攻、今川氏と断交する(45歳)

武田信玄に反感を持った今川氏真は、上杉謙信と同盟を結ぼうと画策をしていた。

一方、信玄も今川氏と手を切ろうと考えており、徳川家康と同盟を締結した上で、駿河に侵攻し、駿府城を奪った。(『歴代古案』ほか)

このとき、今川氏真の正室が北条氏康の娘だった縁で、北条家は今川方につきました。武田信玄は今川・北条連合軍に追われ、また誤って徳川軍を攻めたことから家康とも仲が悪くなり、最悪の状態で甲斐に引き上げます。

足利義昭・織田信長を通じて上杉謙信と和睦する(46歳)

今川・北条家と断交した武田信玄は、外交状況の不利を打開すべく、上杉謙信との同盟を模索した。同盟国である織田信長を通じて足利義昭に申し入れた。

義昭・信長の説得で、上杉謙信もやっと同盟に応じ、永禄12(1569)年7月に甲越和与が成立した。(『上越市史』ほか)

この間、北条氏康も、共同で武田氏を攻めようと上杉謙信に持ち掛けていました。しかし『上越市史』によると、謙信は律儀なことに「武田とも交渉中だから」と武田領への侵略は控えていたそうです。

北条氏政と甲相同盟を締結(50歳)

元亀2(1571)年秋、北条氏康が病により死去した。間もなく武田信玄は北条氏に同盟を申し入れる。北条氏は、上杉謙信との同盟を破棄し、再び武田と同盟を結んだ。(「高橋大吉氏所蔵文書」ほか)

一説には、北条氏は上杉謙信とともに武田信玄を攻めようと考えていたのですが、甲越和与のため信玄を攻めない謙信に嫌気がさしたとも言われています。

上洛へ

足利義昭からの要請をうけ、武田信玄はとうとう上洛・織田信長との決戦に向けて腰をあげます。

比叡山を焼いた織田信長を罵倒する

武田信玄は、比叡山焼き討ちを決行した織田信長を手紙で罵倒し、「天台座主沙門信玄」と署名した。それに対し織田信長は「第六天魔王信長」と署名した手紙を返した。(『イエズス会日本通信』)

織田信長と武田信玄がお互いを罵った長文の手紙は数点残っています。

それにしても、あの二人にしては稚拙なやり取りと言いますか、書いていて恥ずかしくないのかしら。

越後に行くふりをして美濃へ。信長、激怒。(51歳)

元亀3(1572)年秋、武田信玄はいよいよ上洛しようと兵をあげた。

上杉謙信と戦うための出兵だと思った織田信長は、「いま越後と和睦調停をするから待ってくれ」と仲介に入る。

しかし信玄の真の目的は織田信長で、信玄は美濃に侵攻。激怒した信長が「未来永劫許さぬ」と怒りをぶちまけた謙信宛の手紙が現存している。(『上越市史』)

魔王と名乗っている割に、織田信長は武田信玄に対しては意外と優しいというか、義理堅いところがあったようです。

なお平山優氏によると、信玄は本来ならもう少し早く上洛する予定でしたが、病のために遅くなったとの事。信玄は間もなく亡くなっているので、この頃から既に病身だったのかもしれません。

朝倉義景・一向一揆と協力した作戦(51歳)

武田信玄は朝倉義景に宛てた手紙に、織田信長包囲網の作戦を記している。

それによれば、信玄が信長の本領・美濃を攻めとること、その際に畿内や伊勢長嶋で一向一揆をおこさせ、信長の兵力を分散すること、それには朝倉義景や石山本願寺との協力が不可欠であること、が書かれている。(『戦国遺文』)

織田信長はこの後石山本願寺に長く苦しめられるので、信玄の作戦はなかなか良いところをついていたように思えます。

武田信虎、信玄の上洛作戦をサポートする?

信玄の上洛作戦は、一向一揆や畿内に余多ある反織田信長勢力を結集し、一気に攻める方法だった。それに際して、畿内で中小の勢力をあつめ、足利義昭とつなぎをつけていたのが、武田信虎であったという。(「細川家文書」ほか)

信虎は当時70代も後半でしたが、畿内で精力的に活動していたようです。

三方ヶ原で徳川家康を叩きのめす(51歳)

武田信玄は三河を通り、美濃に進もうとした。徳川家康は、信玄の目的が美濃にあると分かっていたが、黙って領国内を通したとあれば武士の名折れだと考えて一戦を挑む。(『三河物語』ほか)

時に徳川家康、29歳。この戦いは徳川軍の惨敗で、多くの家臣を失い、家康も命からがら城に逃げ帰りました。

武田軍はこのまま美濃に向かいますが、信玄が病に倒れてしまいます。

病が重くなり死去(52歳)

元亀4(1573)年4月、信玄は病のため死去した。最期の場所は信州根羽(『甲陽軍鑑』)とも、信州駒場(『戦国遺文』)とも言われている。

狙撃された?

三方ヶ原の戦いの後、三河国野田城を落とした武田信玄は、城明け渡しの時に城兵に狙撃され、その傷がもとで亡くなったらしい。(『松平記』『上杉年譜』ほか)

定説では、武田信玄は病気(ガンや肺結核など)で亡くなったと言われていますが、狙撃説も江戸時代の書物に複数確認されています。

死後

武田信玄は織田信長との決戦を前に亡くなってしまいますが、その影響力は死後にも及びました。

「死を3年は秘匿せよ」などの遺言を残す

死に際し、武田信玄は「死を3年は秘匿せよ」などの遺言を残した。(『甲陽軍鑑』)

他の概要は、

  • 武田勝頼の息子・信勝が16歳になったら武田本家の家督を彼に継がせること
  • 武田勝頼は信勝が成人するまで代理を務めること
  • 葬儀は無用で、3年後に具足を着せて諏訪湖に沈めること
  • 信玄亡き後に織田信長を倒せるのは上杉謙信しかいないから、彼を頼ること
  • 特に北条氏政に自分の死が伝われば、きっと背くだろうから、よく似た弟の信廉を輿に乗せ、あたかも信玄が病で甲府に帰るように演出すること
  • 隣国との合戦はしばらく避けること

というものだそうです。

一説には、この時勝頼を「中継ぎ」としてしまったことが、勝頼に対する老臣たちの忠誠心を下げることにつながった、という話もありますが、遺言の存在も明らかではありません。

また遺言では遺骸を諏訪湖に沈めるようにとありましたが、結局火葬して恵林寺に葬りました。

死を隠そうとしていたのは事実

信玄死後の元亀4(1573)年6月21日付の、相模国大藤与七宛の文書は、あたかも信玄が書いたように繕っている。差出人は武田信玄とされ、「病気のために花押が書けない」として信玄の朱印を押している。(『大藤文書』)

花押は本人しか書けないので、「病気だ」と偽ってハンコで済ませています。

確かに本人が病気の時に花押をかけない事例はありますが、本書状は明らかに武田家の偽装工作でした。

あっという間に死が知れ渡る

上杉謙信は、1か月後の5月には信玄が死去したと判断している。(『上杉文書』)

織田信長は、7月の頭には信玄死去の確報を毛利輝元に知らせている。(『乃美文書』)

偽装工作の甲斐なく、3年どころか3か月も秘密にすることはできていませんでした。

訃報に接した上杉謙信:号泣し喪に服す

武田信玄の死を食事中に知った謙信は、箸を落として号泣したという。(『古老物語』)

訃報に際し、謙信は、城下町で三日間の音曲を禁止し、喪に服した。(『松隣夜話』)

伝説では、上杉謙信は信玄の訃報を心から悲しんだとする内容が多く見られます。

訃報に接した徳川家康:やっぱり悲しい

信玄の訃報に接した徳川家康は、信玄ほどの弓取りはいない、まだ若いのに惜しい人を亡くしたと残念がったという。(『落穂集』)

江戸時代に柳沢吉保の崇拝を受ける

江戸時代、武田旧臣の家柄で甲府城城主になった柳沢吉保は、武田信玄を崇拝し、恵林寺で武田信玄没後133回忌を主催したり、信玄佩用と伝わる太刀を寄進したりした。(恵林寺)

偽文書がたくさん

江戸時代、「武田家の旧臣」という立場が一種のステータスになり、武田信玄の偽文書が大量につくられた。(『ニセモノ図鑑』)

武田信玄は、死後も多大な影響力を持っていました。

信玄の政治

武田二十四将

武田二十四将は、武田信玄の家臣団から選ばれた智将・勇将のこと。具体的には、

飯富兵部少輔虎昌 秋山伯耆守虎繁 武田典厩信繁 馬場美濃守信春 穴山玄蕃頭信君 春日虎綱(高坂弾正) 真田弾正忠幸綱 甘利備前守虎泰 山県三郎右兵衛尉昌景 小畠山城守虎盛 小幡豊後守昌盛  多田三八郎(多田淡路守満頼) 板垣駿河守信方 内藤修理亮昌秀 原隼人佑昌胤 三枝勘解由左衛門尉昌貞 一条右衛門大夫信竜 真田源太左衛門尉信綱 山本勘助晴幸 土屋右衛門尉昌続 小山田左兵衛尉信茂 武田刑部少輔信廉 横田備中守高松 原美濃守虎胤

の24名。(甲府市Webページ)

ただし、全員が同時期に武田家に仕えていたのではない点は、織田四天王や徳川四天王と異なるところです。

なお、武田二十四将は伝承により多少出入があります。

赤備え

武田軍の中でも、飯富虎昌(のち山県昌景)の軍勢は具足を赤く塗った「赤備え」という精鋭であった。(『甲陽軍鑑』)

武田氏滅亡後、赤備えは真田や井伊に引き継がれました。

百足衆

武田家の伝令や金山衆は「百足衆」と呼ばれていた。百足は毘沙門天の使いとされ、後ろに下がらないことなどから、縁起がよい虫とされていた。(信玄ミュージアムと甲府市歴史文化財課のブログ)

一説には、百足衆はゲリラ活動をした部隊ともいいます。

武田信玄の特殊部隊としては、甲州商人が忍者的役割を持っていたとする説や、望月千代女などの歩き巫女を使役していたという説もあります。

水軍があった

今川家の領土を手に入れた頃から、武田家には「武田海賊衆」と呼ばれる水軍があった。(『甲陽軍鑑』)

信玄治世期はあまり目立った活動はなかったようです。

治水に力を入れた

武田氏の本拠がある甲斐国では、釜無川・御勅使川の合流地点が古代からしばしば大氾濫を起こしていた。

武田信玄は川に堤防建設を進め、永禄3(1560)年にはほぼ完成させる。あわせて川周辺に住む人の税金を免除し、かわりに堤防の定期点検を命じた。(『山梨県史』ほか)

このときの堤防は現在も「信玄堤」と呼ばれ、現役で機能しています。

甲州金の鋳造?

武田信玄は、武功があった家臣に褒美として甲州金を与えることもあった。(『甲陽軍鑑』)

甲州金は、良く知られた碁石型のもののほか、様々な形があります。

一方で、具体的な用途(褒美?貯蔵用?)などはまだ分からないところが多いようです。

このほか信玄発の経済政策としては、「甲州枡」の制定や税法(大小切など)の制定が伝説として伝わっています。

金山衆を戦にも活用

金山で活躍していた人夫を、攻城戦に活用することもあった。

たとえば元亀2(1571)年、北条綱成の守る駿河深沢城を攻めた時、金山衆が城外から穴を掘って功績を上げている。(甲斐黄金村・湯之奥金山博物館Webページ)

信玄の教養や性格

和歌や漢詩が得意

武田信玄は和歌が巧みで、作品は『武田晴信朝臣百首和歌』ほか多数残っている。

武田信玄は漢詩も詠み、三条西実澄ら京都から来た公家たちと積翠寺で和漢聯句の会を開いている。(甲府観光ナビ)

幼い頃に『論語』を読んでいたり、軍旗が『孫子』出典だったりと、戦国大名の中でも比較的高い教養を持っていたことが分かります。

筆跡は禅風

二木謙一氏によると、上杉謙信の筆跡が公家風なのに対し、武田信玄の筆跡は禅僧の墨蹟の影響を受けた、枯淡の趣があるものだという。

近衛前久はじめ公家との交流が多かった上杉謙信に対し、禅僧との交流を多く持っていた武田信玄の特徴がよく出ているようです。

恋人の小姓への起請文が残っている

武田信玄は、恋人の春日源助に対し、弥七郎と寝たことは濡れ衣であるという起請文を出している。(東京大学史料編纂所)

面接はハニートラップ?

武田信玄は、側近の採用にあたり、誰もいないところで彼に女性をけしかけ、様子を陰から観察した。その際、気心を許して女性と戯れるような人は決して採用しなかったという。(『紀伊国物語』)

もちろん伝説で、だいぶ人が悪そうな感じもしますが、案外有効な方法でもありそうです。

おわりに

巧みな外交で大勢力を翻弄した武田信玄、彼がもう少し長生きして、石山本願寺や浅井・朝倉とともに織田信長を包囲していたら、もしかしたら歴史は変わっていたかもしれません。

情勢を読むのに敏感だった信玄の治世は安定し、厳しい自然の甲斐国に繁栄をもたらしました。彼の統治姿勢は今でもビジネス書に取り上げられるほどで、現代人もまだまだ彼や彼の逸話から学ぶことができそうです。


【主な参考文献】
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 山梨日日新聞編『武田信玄入門』(山梨日日新聞社、2021年)
  • 二木謙一『武田信玄大全』(KKロングセラーズ、2016年)
  • 笹本正治『長野県の武田信玄伝説』(岩田書院、1996年)
  • 西谷大編『ニセモノ図鑑』(河出書房新社、2016年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武 ...

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