「桐野利秋(中村半次郎)」”人斬り半次郎”と恐れられた男…薩摩藩下士から陸軍少将にまで上り詰めた生涯とは

中村半次郎時代の写真。隣の女性は京都四条「村田煙管店」の娘で桐野の恋人であった村田さと(出典:wikipedia)
中村半次郎時代の写真。隣の女性は京都四条「村田煙管店」の娘で桐野の恋人であった村田さと(出典:wikipedia)
 農民同然の暮らしから身を起こし、幕末には ”人斬り” と言われ、明治に陸軍少将にまで上り詰めた人物がいます。薩摩藩士の中村半次郎(なかむら はんじろう。のちの桐野利秋(きりの としあき))です。

 貧しい家に生まれた半次郎は、幼くして一家を支えるために働き始めます。やがて郷中(ごじゅう)との出会いにより、西郷隆盛の精忠組と関わりを持つようになりました。京へ上った半次郎は、西郷の意向を受けて潜入や偵察任務に従事することとなります。

 明治維新後は陸軍少将となって汚職の撲滅に邁進しますが、明治六年の政変で下野して政府を去ります。鹿児島では西郷のもとで陸軍士官の育成にあたりますが、西郷暗殺未遂の話を聞いたことで半次郎は激昂、西南戦争へ突き進んで行きました。

 半次郎は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。中村半次郎の生涯を見ていきましょう。

貧しい暮らしだった幼少・青年期

 天保9年(1839)、中村半次郎は薩摩国鹿児島郡にある吉野村で、薩摩藩城下士・中村与右衛門の次男として生を受けました。五人兄弟の三番目となります。

 中村家の家禄は、わずか5石という微禄です。当然、暮らし向きは厳しく、半次郎は百姓同然の暮らしを送っていました。嘉永3年(1849)ごろには、父・与右衛門が徳之島に流罪に処せられています。そして安政4年(1857)には兄・与左衛門が病没。その後は半次郎が小作やさつま芋栽培、紙漉きをして一家の暮らしを支えたといいます。

 困窮した暮らしで教育を受ける機会もなかったため、半次郎は無学だと思われていますが、決してそうではありません。外祖父・別府四郎兵衛から読み書きを教わり、後にしっかりとした日記を残しています。十分な教養があったことは確かです。

 剣術については、示現流か薬丸自顕流だったようです。半次郎は藩士・石見半兵衛から決闘の申し込みを受け、石見を諭したことがありました。以降、石見の所属する上之園方限の郷中と交流を持っています。

 薩摩藩の村では、いくつかの区域に分けられ、それぞれを「方限(ほうぎり)」といいました。「郷中」とは、薩摩藩の武士の子弟を教育するための組織です。6歳から25歳までの子弟たちが、勉学や武術を先輩たちから指導を受けました。

 上之園の郷中には、薬丸自顕流の達人・弟子丸龍助(でしまる りゅうすけ)や奈良原喜八郎(ならはら きはちろう)などがいました。半次郎は弟子丸と特に親しかったため、彼に剣術を学んだ可能性もあります。

西郷隆盛との出会いと上洛

 やがて半次郎は運命的な出会いを果たすこととなります。

 半次郎の関わった郷中には、西郷吉之助(隆盛)や大久保正助(利通)ら精忠組に在籍する人間もいました。精忠組は薩摩藩の国父・島津久光の側近を多数輩出。藩政に深く関わる足場を築いていました。

 当時、久光は京都に出兵する方針を固めていました。半次郎も藩士の一人として、随行したいという思いがあったようです。そこで思いを伝えるため、精忠組の盟主である西郷のもとを訪れました。貧しかったため、手土産は自らが作ったさつま芋だけです。西郷は半次郎の心意気を汲んで、深くお礼を伝えました。

 これが半次郎と西郷の最初の出会いでした。

 文久2年(1862)3月、国父(藩主の父)・島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛。半次郎も一行に加わり、京都到着後には中川宮朝彦親王の守衛を務めています。

 翌4月には寺田屋事件が勃発。久光は公武合体運動の推進を目指していました。このため、久光は藩士に命じ、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた薩摩藩内の過激派志士たちを武力で鎮圧させています。

 この寺田屋事件では、半次郎と親しい弟子丸も命を落としてしまいます。一方で、親交のあった奈良原喜八郎は鎮圧側で参加しました。以降、半次郎は奈良原から距離を置くようになったといいます。人斬りと称される半次郎ですが、かなり人間味のある逸話です。

京都から最前線に赴く

長州藩や土佐藩との接触

 京都において、半次郎は藩の重臣と繋がりを持っています。軽輩出身の半次郎ですが、家老・小松帯刀や西郷らに重く用いられるようになっていきました。

 半次郎が関わった上之園郷中は、西郷ら精忠組と縁が深く、小松も精忠組とは近しい関係にありました。環境も当然ながら、半次郎の人柄や能力が優れていたことが一因だと想像できます。

 京都では土佐藩士・中岡慎太郎とも会談。その印象を「正義ノ趣ナリ」と評されています。中岡ら土佐藩の下級武士は、尊王攘夷かつ反幕府的思想を強めていました。面会が叶った半次郎の考えも既にそこに到達していたようです。

 元治元年(1864)6月、京都で池田屋事件が勃発。近藤勇ら新選組が長州藩をはじめとする過激な尊王攘夷派を制圧しています。当時の半次郎は、長州藩邸に出入りする立場でした。既に半次郎が長州藩に近しい考えを持っており、連絡を取り合っていたことがわかります。しかしこのとき、薩摩藩と長州藩の関係は悪化していました。半次郎の動きは、両藩の関係を改善することを狙ったものとも解釈できます。

 やがて半次郎は西郷や小松に長州行きを希望します。形式上は脱藩したことにして、長州藩を探索に向かいましたが国境で止められ、入国は叶いませんでした。

7月、池田屋事件に沸騰した長州藩が挙兵(禁門の変)。京都に進撃して幕府と矛を交えています。半次郎は薩摩藩兵の一人として出動。長州勢と戦いつつも、極力戦闘を避けていたようです。

最前線での偵察任務

 半次郎は剣の腕や能力を見込まれたのか、偵察任務に従事しています。同年11月、半次郎は兵庫にある神戸海軍操練所に入塾を希望しました。

 神戸海軍操練所は、軍艦の操縦や航海術を学べる教育機関です。幕府が設置し、諸国から坂本龍馬が塾生として加わっていました。実際に入塾が叶ったかは判然としていません。しかし半次郎の目的は、海軍士官になることよりも、幕府の内情偵察にあったのではないでしょうか。半次郎は西郷や小松の密偵として、最前線に赴くことを希望していたようです。

 12月には、水戸天狗党の挙兵にも偵察にも出向していました。半次郎は美濃の金原に駐屯していた天狗党の陣所を訪問。首領である武田耕雲斎と藤田小四郎と言葉を交わしています。

 偵察任務上、敵対する勢力からは警戒されます。囚われることはもちろん、命を落とす危険さえ、はらんでいました。半次郎は幾多の危険を乗り越え、修羅場を潜り抜けていったものと推測されます。

人斬り半次郎としての記録

 慶応2年(1866)1月、薩摩藩は長州藩と同盟を締結。半次郎は西郷や小松の意向を受けて動いており、同盟には両者が深く関わっています。半次郎も望んでいた討幕の同盟でした。

 慶応3年(1867)には、伊集院金次郎とともに太宰府の三条実美らを訪問。長州の木戸孝允などとも親交を持ち、山縣狂介(有朋)らを京都薩摩藩邸に送るなどしています。

 勝海舟は『解難録』の慶応3年探訪密告において、京都で政局を動かす薩摩藩士を8人挙げています。家老である西郷や大久保、小松と並び、そこには半次郎の名前も挙げてあるのです。助力する立場とは言え、いわば半次郎は事実上の公用人として活動していたようです。

 公的な立場として活動する一方で、半次郎は汚れ仕事も行っていました。同年9月、半次郎は西洋兵学の師・赤松小三郎を暗殺。自身の日記に犯行を克明に記しています。赤松は薩摩や会津に西洋兵学を教授する立場でした。薩摩の機密情報をだいぶ握られたこともあり、半次郎に暗殺命令が下ったようです。

 半次郎の真価が発揮されたのは、戊辰戦争においてでした。慶応4年(1868)1月、半次郎は鳥羽伏見の戦いで御香宮で奮戦。東征大総督府のもとでは、駿府や小田原の占領を行っています。

 交渉任務においては、西郷に同行。山岡鉄舟や勝海舟との会談にも立ち会いました。

 8月には大総督府から軍艦を拝命。会津若松城攻略のために藩兵の指揮を預かっています。続いて9月には開城した会津若松城の受け取り役を担当。敵であるはずの会津藩士たちを丁重に扱い、涙さえ流しました。

陸軍少将へ

 明治維新がなった後、半次郎は「桐野利秋(きりの としあき)」と改名。中央政府ではなく、鹿児島にいました。明治2年(1869)には東京にいる大久保利通に鹿児島の内情を報告するなど、中央との連絡役を担当していました。

 明治4年(1871)には、西郷が廃藩置県のために藩兵を率いて上洛。このとき、半次郎も将の一人として付き従っており、兵部省の所属となって御親兵に編入。陸軍少将を拝命すると同時に、従五位に任じられています。かつて貧しい暮らしをしていた半次郎が、政府指折りの高級軍人にまで上り詰めたのです。

 しかし半次郎は慢心することはありませんでした。7月には蝦夷地の函館を視察。札幌への鎮台設置を上申し、のちの屯田兵設置に貢献しています。そして、ついには鎮西(熊本)鎮台の司令長官まで拝命。全国の士族の中でもトップクラスの位置に立っていました。

桐野の戦争

陸軍裁判所所長

 明治政府において、半次郎たちは主導的な役割を果たすようになります。明治4年(1871)、大久保利通や岩倉具視らは条約改正交渉のために渡欧。留守政府は、西郷や半次郎たちが預かることとなりました。

 翌明治5年(1872)、山城屋事件が勃発。御用商人・山城屋和助が公金65万円を借り出し、返済が不可能という事態となりました。山城屋は陸軍大輔・山縣有朋の部下であり、陸軍省では軍需物資の納入に関わっていました。半次郎は薩摩閥の一人として山縣を激しく追及。辞表を提出させています。

 改革意識が評価され、半次郎はさらなる権限を与えられます。明治6年(1873)に陸軍裁判所所長を拝命。綱紀粛正に取り組む立場となりました。しかし同年10月、帰国した大久保らと西郷ら留守政府の間に征韓論が勃発。敗れた西郷に従い、辞表を出して薩摩に帰国する道を選びました。

西南戦争で総司令となる

 一士族となった半次郎ですが、決して腐ることはありません。吉野開墾社を指導するなど、自らが先頭に立つ形で原野の開墾事業に当たりました。半次郎は、西郷が設立した私学校に200石を提供。若者たちの陸軍士官養成に協力しています。

 しかし平穏は無残な形でうち砕かれてしまいます。明治10年(1877)、政府から派遣された警官・中原尚雄による西郷刺殺計画の疑惑が噴出。半次郎は私学校での評議を主導しています。結果、西郷は半次郎らの挙兵案に頷きました。挙兵が決まると、半次郎は四番大隊指揮長を拝命。全軍の総司令を兼任していました。いわば西南戦争が、半次郎主導で起こされたと見ることできます。

 北上した西郷軍は、熊本城を包囲。しかし攻めあぐねている間に政府軍が到着してしまいました。その後も西郷軍は九州各地で敗北。半次郎たちは鹿児島に戻って城山に立てこもっています。やがて政府軍が城山に総攻撃を開始。既に味方は半次郎や西郷ら40名ほどしか残っていませんでした。西郷は敵弾を受けて自決。やがて味方も次々と討ち死に、あるいは自決して果てて行きました。

『鹿児島英名競』に描かれた桐野利秋(歌川国貞画、出典:wikipedia)
『鹿児島英名競』に描かれた桐野利秋(歌川国貞画、出典:wikipedia)

 半次郎はさらに進撃して奮戦。塁に籠って戦い続けます。しかし最後の時は迫っていました。半次郎は額を銃弾で撃ち抜かれて戦死。享年四十。墓所は南州墓地にあります。

 「西南戦争は桐野の戦争だった」と言われるほど半次郎は奮戦していました。洒落ものであった半次郎の遺体は、香水の香りがしていたと伝わります。同年には逆賊として官位も褫奪されましたが、大正5年(1916)に正五位を追贈されて名誉が回復しています。


【主な参考文献】
  • 桐野作人 『薩摩密偵 桐野利秋ー「人斬り半次郎」の真実』 NHK出版 2018年
  • 栗原智久編 『桐野利秋日記』 PHP研究所 2004年
  • 勝海舟全集刊行会 『勝海舟全集1 幕末日記』 講談社 1976年
  • 春山育次郎 『少年読本第十一編 桐野利秋』 博文館 1899年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。