「刀狩り」の歴史は秀吉が初めてじゃない。単純な武装解除とは異なるデリケートな事情

 刀狩りといえば、豊臣秀吉が実行したものがもっとも有名なようですが、実のところ秀吉が初めてというワケではありません。それ以前からそれぞれの大名が行ってきた経緯があります。

 今回は刀狩りの歴史を概観し、特によく知られたものをピックアップしてみることにしましょう。

刀狩りの目的とは?

 戦国時代といえば各地の勢力が鎬を削り、恒常的な紛争状態だったイメージが強いかと思います。領地争いなどで近隣の集団や国との抗争があり、武士同士の戦いが激化していったという文脈で語られることが多いでしょう。

 しかし、武士にとって恐ろしいのは敵国の武士団だけではありませんでした。それは民衆の武装蜂起、いわゆる「一揆」と呼ばれる実力行使の存在です。

 農民であれば収穫の何割かを税として領主に納め、統治者はその財源をもって治安維持やインフラ整備などの社会福祉を行うという、委任統治の体裁が古代から続けられてきました。ところが、悪質な領主であれば苛烈な徴税で民衆を疲弊させたり、不作が続いても税率軽減などの適切な対処を行わなかったりする等の問題がしばしば発生しました。

 農民側も税軽減や免除等の交渉を行うこともありましたが、それが決裂して限界に達した場合、やむなく武装蜂起に至るケースもありました。戦闘のプロである職業軍人の武士が相手ですから、勝負は目に見えているかと思いきや、さにあらず。双方ともに甚大な被害を出し、なおかつ農業従事者の死傷によって著しく生産力が低下するといった最悪の事態を招く出来事だったのです。

 したがって、武士にとって農民との適切な関係構築は重要であり、何より武力の増大は何としても事前に抑制しておきたい課題でもありました。「刀狩り」はそんな農民の戦闘力を削ぐことを目的に行われた施策のひとつです。

鎌倉時代、北条氏の刀狩り

 刀狩りが文献上に初めて登場するのは鎌倉時代です。第三代執権「北条泰時」が安貞2年(1228)に高野山の僧侶に対して行ったものとされています。

 次いで仁治3年(1242)、鎌倉の町中にいる僧侶および中間・稚児・寺侍などの帯刀を禁じ、違反が発覚した場合は没収のうえ大仏に奉納する旨を布告しています。

北条泰時像(『柳庵随筆』より)
鎌倉幕府北条家の中興の祖・北条泰時。御成敗式目を制定した人物で知られる。

 また、第五代執権「北条時頼」は建長2年(1250)、上記の適用範囲を庶民に拡大し、夜間の弓矢携行も禁じました。これらは武装した寺社勢力がすでに脅威となっていたことや、一般庶民でも帯刀する風習があったことを物語っています。

 治安維持の観点からも明確に法で禁じなければならないほど武器が浸透していた証拠であり、「刀狩り」というよりは武器携行の禁止条例といえる性格のものでした。


柴田勝家の刀狩り

 のちに越前国を領した織田信長の重臣「柴田勝家」は、越前一向一揆の鎮圧に向かった将の一人でした。

 天正2年(1574)、同3年(1575)に起こったこの一連の一揆は苛烈を極め、やがて一揆内での内部分裂もあって終息しました。

 この時、一揆の総大将である「下間頼照」は反本願寺派の真宗高田派の門徒らに討たれていますが、勝頼は一揆鎮圧に向け、真宗高田派の門徒や影響地域には武装を奨励し、刀の購入までも勧めたことが記録されています。

 一方で、それ以外の地域へは寺社を通じて知行ごとに定められた数量の刀を提出するよう布告が出され、これを「刀さらへ」と呼んでいます。ただし、同地域には織田氏の祖先が神官を務めたという織田神社もあり、ここには「刀さらへ」を実施しないという特別の措置を行っています。


豊臣秀吉の刀狩り

 もっとも有名であろう、天下人・豊臣秀吉の刀狩りは、幾度かのタイミングで行われました。

 天正13年(1585)、紀州攻めで根来寺・雑賀衆を制圧した折、農民の助命と引き替えに武装解除を条件として出しています。同年には高野山に対しても同様の措置を行い、僧らの武装解除を成功させています。

羽柴秀吉のイラスト

 天正15年(1587)には肥前で発布した「バテレン追放令」に伴い、刀匠を派遣して名刀の鑑定と買い取りを広告し、集まった情報をもとに刀狩令を公布。およそ1万6千振りもの刀を没収して武装蜂起の未然阻止をはかりました。これは宣教師の「ルイス・フロイス」が記録しています。

 また、同年には「喧嘩停止令」で武器を取っての村同士の抗争を禁止、紛争解決が暴力的にエスカレートすることに歯止めをかけようとします。

 天正16年(1588)には、もっともよく知られる三か条の「刀狩令」が布告され、農民の武器所持を禁じたものと理解されています。

要約すると、

  • 農民が耕作に関係のない武器を所持するのは争いの元となるため、大名らはそれを徴収して提出せよ。
  • 集めた武具は建造中の方広寺大仏に再利用する。この功徳で農民は現世でも来世でも救済される。
  • 農民は専門である農業に集中せよ。刀狩りはそのために秀吉が情けをもって行うものである。

以上の内容が記されています。

 これを見るとわかるように、刀狩令とは農民に直接宛てたものというよりは、大名たちに向けて農民の武装解除を推進させる意図をもって布告されたものでした。

おわりに

 秀吉はもっとも大規模な刀狩りを行いましたが、農民の完全武装解除を企図したわけではありませんでした。その証拠に、祭祀や猟などに必要な武具・銃砲類までは没収せず、ある程度のグレーゾーンを設けています。

 その最大の目的は「兵農分離」の足掛かりを築くことにあったとも考えられており、来るべき太平の世を見据えた施策だったともいえるのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』(1996 学習研究社)
  • 『日本兵農史論』(小野武夫 1941 有斐閣)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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