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 2019/02/18

「柴田勝家」織田家筆頭家老だったのに…。あの人の裏切りで負けた!?

柴田勝家の肖像画

信長家臣団の中で、最も広い領地を支配していた柴田勝家。「鬼柴田」との異名を持つほど、戦場では恐れられていた人物です。しかし本能寺の変で運命が変わると、賤ケ岳の戦いでは部下だと思っていた ”あの人” の裏切りに遭っていたようです。
(文=犬福チワワ)

信長の父・信秀の時代から織田家に仕える

柴田勝家は、尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で生まれたとされていますが、その年には諸説(大永2・6・7年/1522・26・27)あります。初名を「権六(ごんろく)」といい、その後は「修理亮(しゅりのすけ)」を名乗りました。

また、勝家の父は、柴田勝義という戦国武将と言われています。さらに柴田家は『太閤記』によると、清和源氏斯波氏の流れを汲んでいるそうです。が、いずれも定かではありません。

このように、いまいち出自のよくわからない勝家。ですが『信長公記』によると、天文20年(1551年)に行われた信長の父・織田信秀の葬儀に参列していたという資料が残っています。ですので、信秀の時代から織田家に仕えていたということは確かなようです。

信長の弟・信行に仕える

信秀の死後、勝家は嫡男の信長ではなく、弟の織田信行(信勝)に仕え始めます。

当時は信長がまだ、“大うつけ”と呼ばれていた頃。現代の私たちは、その後の信長の活躍を知っているから良いのですが、当時の人々から見ると、信長はただの“やべぇ奴”だったのではないでしょうか。信長の素行が悪すぎたため、織田家の家老・平手政秀なんかはそれを憂いて自害したと言われるほどです。

一方、弟の信行は織田家中でも評価が高く、人望もあった人物。普通の人間であれば、そりゃあ弟のほうに仕えたくなりますよね。

信長を討とうとするも……負ける

やがて信行は、兄の信長に対抗し、代々織田家の当主が名乗ってきた「弾正忠」の官途を自称するようになりました。そして弘治2年(1556)、信行に家督を継がせようと、勝家や同じく織田家臣・林秀貞らは、信長を討つことを画策。ところがこの動きは信長側に察知されており、両者は稲生(いのう/現在の名古屋市西区)の地で戦うことになります。(稲生の戦い)。

この戦いで、信行・勝家方は敗れてしまうんですね。ですが信長の母・土田御前の嘆願によって、彼らは許してもらえます。あの信長に許してもらえるなんて、ラッキーですね。そしてこれを機に、勝家は信長に仕えるようになったのです。

一方の信行は、これだけではおさまりませんでした。この翌年(弘治3年/1557)にも、再び謀反を企てたのです。勝家はそれを知ると、信長に密告。すると信長は仮病を使って信行を見舞いに誘い出し、信行を謀殺しています。

信長の腹心として活躍

信長はその後、「桶狭間の戦い → 尾張統一 → 美濃平定」と着実に天下統一へのコマを進めていきました。この頃には信長直属の家臣となっていた勝家ですが、しばらくは活躍の場は与えられなかったと言われています。まあ、一度とはいえ、信長に刃向ってもいますしねぇ……。

再び勝家が活躍を見せるのは、永禄11年(1568)9月のことです。信長は足利義昭を擁し、上洛するために岐阜を出陣。勝家も一軍の大将として、これにお供していました。その途中、敵対した三好三人衆の一人・岩成(石成)友通が籠城する勝龍寺を攻略するなど、武功を挙げたのです。

近江支配体制の一角を担う

上洛した信長は、諸大名に対しても上洛を命じます。ところが再三の要請にも関わらず、まったく応じない男が……そうです、越前の朝倉義景です。その態度に業を煮やした信長は、元亀元年(1570)、越前に侵攻を開始。ところが、この時まさかの出来事が起こります。

よりによって、義弟である北近江の浅井長政に裏切られてしまったのです。「お前がかよぉー!お市は何やってんだよぉー!?」と信長が叫んだのかは知りませんが、この裏切りにより、織田勢は命からがら京へと逃げ帰ることになります(金ヶ崎の退き口)。

さらには、失地回復を狙っていた六角氏(※)の存在もあり、当時の信長の本拠地・岐阜と京とを結ぶルートが閉ざされるというおそれすら出てきました。

※ 信長が義昭を奉じて上洛する際、近江の六角氏はこれに協力していない。そのため織田勢の攻撃を受け、甲賀郡に逃れていた。

そこで信長は、以下のように家臣たちを近江の要所に配備することで、この緊急事態に対処しようとしました。

我らが勝家さんも入っていますねぇ。この体制には、のちに横山城に木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が、佐和山城に丹羽長秀が加わります。彼らには近江の国衆が与力に付けられ、近江支配体制として定着するようになっていったものとみられます。

そして同年6月、さっそく六角氏が動きました。甲賀郡から北進してきた六角義賢(承禎)は、勝家の守る長光寺城を包囲し、城の水源を断ちました。そんな状況の中、勝家はなんと、水の入った瓶をたたき割るという行動に。おぉ~、これは決死の覚悟だ!

この出来事がきっかけで、「ツボワリ柴田」「瓶(かめ)割り柴田」なんて呼ばれるようになったそうですよ。こうして城外に出た勝家は、永原城の佐久間信盛と連携して、六角氏を撃退することに成功しています(野洲河原の戦い)。

さらに同年7月には、三好三人衆が反信長の兵を挙げ、摂津で織田軍と交戦します。9月に入り、石山本願寺の顕如もこれに呼応して挙兵すると、戦局は織田軍不利に傾いていきました(野田城・福島城の戦い)。

その上、これに乗じて浅井・朝倉の大軍が近江より南下を開始。森可成や信長の弟・織田信治らを討ち取ると(坂本の戦い・宇佐山城の戦い)、京を目指したのです。

あーもう、カオス、カオス。こんな状況の中、信長は明智・柴田軍に対して将軍御所の守備を命じます。ところが事態を重く見た勝家は、信長にも京に戻るように進言。こうして織田軍は摂津から全軍撤退し、京へと向かったのです。

一方、それを知った浅井・朝倉連合軍は京から比叡山に後退し、立て籠もるという行動に出ます。そこで、勝家ら織田の軍勢は比叡山を包囲。年末まで対陣したものの、両者は講和に至りました(志賀の陣)。

その後も勝家は、長島一向一揆掃討や比叡山延暦寺の焼き討ちなどに参加。没収した延暦寺寺領・社領の一部を与えられています。

信長包囲網の崩壊

さて、信長とは次第に不和になっていった将軍・足利義昭。彼は反信長勢力、すなわち浅井氏・朝倉氏・石山本願寺・三好三人衆・武田氏などの力を結集しようと、水面下で動いていました。

元亀3年(1572)4月、三好義継松永久秀は、それまで反目していた三好三人衆と結託し、信長に反旗を翻します。これに対処するため、勝家は佐久間らとともに派遣されています。また同年には武田信玄が西上し、徳川・織田連合軍を破っています(三方ヶ原の戦い)。おぉ~義昭の立場が、徐々に強まってきましたねぇ。

天正元年(1573)に入ると、義昭はついに挙兵。同年4月には、正親町天皇の勅命により、両者は一旦講和します。ですがその後、信玄の死が伝えられると、信長との立場は逆転。同年7月に再び挙兵した義昭でしたが、あっけなく織田勢に敗れることになりました(槙島城の戦い)。

それから間もなく、信長は朝倉・浅井両氏を立て続けに攻め滅ぼしています(一乗谷城の戦い小谷城の戦い)。また同年9・10月には、二度目の長島一向一揆掃討が行われ、北伊勢の多くの諸城を陥落させました。

信長包囲網が、一気に崩壊したということですね。そして勝家は、これらの戦いすべてに従軍したといいます。くぅ~、働きますねぇ! その後も勝家は、長島一向一揆殲滅戦や高屋城の戦い、長篠の戦いにも参戦しています。

北陸方面軍団の指揮官となる

さて、この頃の越前国では、一向一揆勢力が支配権を握るようになっていました。朝倉氏滅亡後、信長は越前を朝倉の旧臣に任せていたのですが、彼らは内紛を起こします。そんな頃、本願寺の顕如は七里頼周(しちり・よりちか)を派遣し、越前の支配権を奪取したのです。 

とはいえ、そういった状況も長くは続きませんでした。長篠の戦いで武田への対処が落ち着いた信長は、天正3年(1575)8月に全軍を挙げて、越前一向一揆の殲滅にかかったのです。結果は織田軍の大勝。その結果、越前は下記のように分配されることになりました。

  • 柴田勝家 :8郡(坂北・坂南・吉田・足羽北・足羽南・丹生北・今北西・今北東)
  • 佐々成政前田利家・不破光治:2郡(今南西・南条)
  • 金森長近:大野郡の3分の2
  • 原政茂:大野郡の3分の1
  • 武藤舜秀:敦賀郡

ほぼ、勝家のものになったことがわかりますね。これまでの忠勤が、信長に認められた結果ですね。また、2郡を与えられた府中三人衆(佐々成政・前田利家・不破光治)は、そんな勝家を監視する役目を与えられていました。

勝家を頂点とする、新たな越前支配体制の始まりだぁ! ほどなくして勝家は北庄城の築城を開始。翌天正4年(1576)には北陸方面軍団の指揮官に任命され、加賀の平定を一任されることになったのです。というわけで、これ以降の勝家の主戦場は北陸方面になります。

天正5年(1577)には、越後の上杉謙信が能登へと侵攻。攻撃を受けた七尾城(現在の石川県七尾市)の救援のため、勝家は大軍を率いて向かいました。しかしその途中、手取川を渡った時、七尾城が落ちたという知らせが届きます。

撤退しようとした織田軍でしたが、その背後から襲い掛かる上杉軍……。この結果、多くの兵が溺れ死ぬことになり、上杉軍に敗北を喫しました(手取川の戦い)。なお、この戦いの前には勝家と秀吉が衝突。そして秀吉は、無断で戦線を離脱しています。

織田軍を破り、ご満悦だったという謙信ですが、この翌年に病死。それにより、北陸の情勢も変化します。天正8年(1580年)、勝家は加賀一向一揆の首謀者を倒し、ついに加賀を平定。能登・越中にも進出し、さらにこの頃には織田家筆頭家老の座にも登り詰めたのです!

天正10年(1582年)3月、勝家率いる北陸軍団は上杉方の越中・魚津城を包囲。これがなかなか手強く、6月3日にようやく陥落させました(魚津城の戦い)。しかし、この時の勝家はまだ知らなかったのです。その前日、主君・信長が本能寺の変で討たれていたことを……。

知らせを受けた勝家は、すぐに撤退して光秀の討伐に向かおうとしました。が、同じく信長の死を知った上杉方に邪魔をされ、秀吉に先を越されてしまうのです。よくも邪魔してくれたな……これが運命の分かれ目だったのに。

信長の死で運命が一転

それからまもなく、織田家の後継者と領地の再分配を決めるため、重臣会議が行われることになります(清洲会議)。これに参加したのは勝家と秀吉、そして丹羽長秀と池田恒興でした。なお、関東方面軍の指揮官であった滝川一益は、北条軍との戦いに敗れ、会議に出席するどころではありませんでした。

清須会議で秀吉と対立

この会議の中で、勝家は信長の三男・織田信孝を後継者として推挙。一方、秀吉は秀吉の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)を推しました。しかし、丹羽長秀と池田恒興が秀吉を支持したため、後継者は三法師に決定してしまうのです。この背景には、秀吉には光秀を討ったという功績があったから、という見方があります。あの時、邪魔されていなければ……。

それは領地の再分配にも効いたのか、秀吉は大きく加増されることになります。これにより、勝家は秀吉に追い越されることに……。まぁ、この会議で勝家にとって良かったことといえば、信長の妹・お市の方(年の差は20歳以上!)との結婚が許されたことくらいでしょうか。お市の方は無双の美女だったと言いますからね。

こうして勝家と秀吉による、織田家の主導権を争う熾烈なバトルが始まりました。勝家は滝川一益・織田信孝・前田利家らを、対する秀吉は丹羽・池田・織田信雄などを味方に付けます。両者は派閥を形成して対立、さらには織田家以外の周囲の勢力にまで協力を求めて奔走することになりました。

賤ケ岳の戦いで前田利家が戦線離脱

そしてついに天正11年(1583)、織田家を二分した戦いの火蓋が切って落とされました(賤ケ岳の戦い)。激戦を繰り広げていた両軍でしたが、なんと……ぬぁんと、勝家方であったはずの前田利家が突如、戦線を離脱するのです。えええぇぇ。マジかよ、利家。

利家は、勝家とは主従関係にあり、秀吉とは親友という関係にありました。そのため、この決戦自体に悩んでいたと言われています。うーん、利家かわいそう! と言いたいところですが、勝家にとってはたまったもんじゃありません。利家の突然の離脱によって、勝家方は総崩れになってしまったのですから。

こうして、本拠地の北庄城に逃げ帰った勝家。一方の秀吉は、利家までも味方につけ、城を包囲。覚悟を決めた勝家は、妻・お市の方に逃げるように勧めますが、彼女はこれを拒否。そして秀吉軍が総攻撃を仕掛ける中、勝家は功のある者たちを賞した後、お市の方とともに命を絶ちました。

まとめ

織田家のエリート家臣であった柴田勝家。数々の戦いを経験し、信長から厚い信頼を受けていた彼は、北陸方面軍団の指揮官にも任命されました。そして織田家筆頭家老にまで登り詰めたものの、信長の死によってその運命は一転。秀吉と対立し、賤ケ岳の戦いでは前田利家に裏切られてしまいます。そして北庄城で、お市の方とともに自害という最期を遂げました。

裏切りは戦国の世のならいとはいえ、ここぞという場面で部下に裏切られるとは……。世の中の上司と言われる方々、くれぐれも部下は大切にしてあげてくださいね。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
  • 谷口克広・岡田正人『織田信長軍団100人の武将』(新人物文庫、2009年)
  • 矢部健太郎『超!ビジュアル戦国武将大辞典』(西東社、2015年)
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)
【参考HP】




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