「大江広元」鎌倉殿の13人のひとり。源頼朝と北条氏に信頼された幕府の宿老で、承久の乱の功労者

大江広元(おおえ の ひろもと)は京の下級貴族出身で、文官として源頼朝に仕えた人物です。文官ゆえに戦で活躍するようなことはなく、広元の一番の功績として知られるのは「守護・地頭制度」の確立ですが、承久の乱の折には京都進撃論を主張して朝廷軍を敗北に追い込んだ功労者でもあり、文官ながら武士さながらに強行論を打ち出す一面もありました。

「成人してから実朝暗殺の時まで泣いたことがない」というほど冷静・冷徹であったらしい広元の生涯を見ていきましょう。

下級貴族の官人として

大江広元は、『吾妻鏡』や『鎌倉年代記』といった歴史書の記述から、逆算して久安4(1148)年に生まれたとされています(『尊卑分脈』によれば康治2(1143)年生まれ)。

一般に「大江」広元として名が知られていますが、はじめは「中原」を名乗っていました。広元の出自についてはいくつかの説があります。

  • 大江維光の実子で、中原広季の養子となった説(『尊卑分脈』「大江氏系図」より)
  • 中原広季の実子で、大江維光の養子となった説(『続群書類従』「中原系図」など)
  • 藤原光能の実子で、母が中原広季と再婚して「中原」を名乗るようになり、母の兄弟の大江維光の養子となった説(『系図纂要』『江氏家譜』より)

3番目の藤原光能は後白河院の近臣です。光能の子であるとすれば、広元は光能が17歳の時に生まれたことになるため、上杉和彦氏は「事実にはかなり遠い」(『大江広元』(人物叢書 新装版))として除外し、残る大江維光、中原広季については、建保4(1216)年に広元が「大江」姓への改姓を朝廷に求めた時の申文に、大江維光と「父子の儀」があり、中原広季(原文は「広秀」)には「養育の恩」があるとあることから、1番目の大江維光実子、中原広季の養子説をとっています。

広元は大学寮で明経生(みょうぎょうのしょう/大学寮の四道のひとつで、儒学を学ぶ学科)の中でも特に優秀な明経得業生(とくごうしょう/特待生身分)になり、仁安3(1169)年に縫殿允(ぬいどののじょう/縫殿寮は中務省に属し、宮中の衣服製造や後宮の人事をつかさどる)に任官、嘉応2(1170)年には権少外記(太政官の事務を行う官人)に、さらに翌年にはひとつ上がって少外記となっています。

広元の上司は大外記の清原頼業(よりなり)で、摂関家の九条兼実の側近のひとりでした。つまり、この時点で広元は兼実の下で事務仕事を担うひとりであったわけですが、のちに頼朝重臣となってからは頼朝と兼実の窓口として活躍することになります。

頼朝の側近として

広元がいつから頼朝のもとで働き始めたのかはわかっていません。『系図纂要』や『江氏家譜』は頼朝が挙兵した治承4(1180)年に鎌倉に下向したとしていますが、『吾妻鏡』に広元の名が初めて出てくるのは寿永3(1184)年のことです。

朝廷の官人であった広元がなぜ鎌倉に下向することになったのかというと、おそらく広元の兄弟である中原親能と頼朝との縁で紹介を受けたのだと思われます。九条兼実の日記『玉葉』によれば、親能は相模国の武士・波多野経家のもとで育ち、頼朝とは「年来知音」つまり長年の知り合いであったといいます。鎌倉を拠点に政治を行おうという頼朝に、朝廷で実務官人として働いた経験をもつ広元は必要な存在だったのでしょう。頼朝が「関東御領」と呼ばれる直轄領荘園群をもつと、広元は家政を担う公文所別当に就任します。公文所別当の主な仕事は公文書の作成や発給の管理などでした。

守護・地頭制度

文治元(1185)年に頼朝が従二位に叙せられて公卿になると、三位以上の公卿に設置が許された家政機関「政所」が鎌倉に設置され、広元は政所別当に就任しました。政所別当としての仕事は訴訟に関する事柄だけでなく、鎮西統治の協議、平家没官領の調査、その他宗教儀礼に関することなど多岐にわたりました。

このころの広元の功績としてよく知られているのが、「守護・地頭の設置を進言した」ことでしょう。しかし、この時はじめて地頭職が創出されたわけではなく、以前にも平家による設置例があったうえに、頼朝に進言したのは広元ひとりではなく、同じく文官の三善康信、藤原俊兼、藤原邦通らがいました。もっとも、広元が朝廷に働きかけたことにより実を結んだことには違いありません。

頼朝の信頼も増したのか、文治2(1186)年には、頼朝の発給文書が広元か平盛時の右筆書でない場合を除いて頼朝の花押は記されないことになり、広元の権威の度合いがうかがえます。また、頼朝の晩年ごろには御家人の恩賞業務にも関わるようになり、御家人たちにとって広元は無視できない重い存在になっていました。

任官問題

広元は義経の無断任官問題のころ、義経の監視役を担い、義経には取次役として頼られていたようですが(有名な「腰越状」を託された)、義経にとって色よい返事はなく、結果義経は鎌倉に入ることがかなわず京に戻っていきました。

無断任官といえば、義経の無断任官で関係が悪化したことといい、御家人24人の無断任官に怒り彼らを痛烈に罵ったことといい、頼朝は幕府の家人が自分を通さずに朝廷の要職につくことを嫌悪しました。

建久2(1192)年4月の除目で、広元は明法博士・左衛門大尉に任じられ、また検非違使となっています。このころ頼朝は今まで親しく付き合ってきた九条兼実の政敵・源通親に近づいて長女・大姫の入内工作を進めており、その交渉にはやはり広元が関わっていたと思われます。この時の任官はまさに通親の口添えによるものであったようです(広元と通親が親密であったことは、広元の長男・親広が通親の猶子になったことからもうかがえる)。

当然、頼朝のあずかりしらぬところで広元が任官したことは、頼朝の不興を買いました。かつて義経がどんな目にあったか知らないはずはない広元は、11月5日に明法博士職を辞し、翌建久3(1193)年2月21日に残りの左衛門大尉と検非違使の職も辞しています。

頼家・実朝の時代

頼朝の没後も、将軍の側近として広元の仕事は変わりなく続きました。ただ、幕政の中心が将軍から有力御家人集団、そして執権へと移っていく過程で広元の立場の変化はあったでしょう。

頼家の時代、側近の梶原景時の讒言をきっかけに景時が失脚する事件(梶原景時の変)がありました。有力御家人ら66名の連判状が作成され、これが広元に提出されたのですが、古くからの頼朝寵臣を糾弾することをためらった広元は頼家の取次を保留しました。それを和田義盛に咎められ、頼家に取り次いで結局景時は討たれることになるのですが、この一件から将軍と有力御家人の間にある広元が難しい立場にあったことがわかります。

その後、頼家は父の時代のような将軍中心の政治ができず、権限を失ったことに嫌気がさしてか趣味の蹴鞠に熱中するように。頼家が重病にかかって危篤状態になると後継者をめぐる争いが勃発(比企氏の乱)し、それに絡んで頼家は幽閉ののちに暗殺されることになるのですが、自邸で頼家を療養させていたという広元はどのような心持ちだったのでしょう。将軍に寄り添いたい気持ちはあっても、孤立する将軍から有力御家人たちへと傾かざるを得なかったのかもしれません。

頼家の死後、その弟の実朝が第3代将軍になりました。この時新たに実朝の外祖父・北条時政が政所の別当に加わり、広元は北条氏と協調して政治を運営していくことになりました。これは時政が失脚し、その次男・義時が北条氏の後継者となってからも変わりませんでした。

実朝は優れた歌人であったことはよく知られています。実朝は和歌という共通の趣味をもつ後鳥羽上皇といい関係を築いていました。鎌倉にいながら、勅撰集の撰者も務めた藤原定家(ていか)の指導を受けて和歌の才を磨くほど熱心に学んでいたといいます。定家に教えてもらいたいというのは実朝の希望で、これを叶えたのが広元でした。広元の娘婿に、定家と一緒に『新古今和歌集』の撰者を務めた歌人・飛鳥井雅経がいます。その関係で定家とのつながりができたのでした。

広元は実朝の趣味の援助をする一方で、朝廷の高い官位官職を求める実朝を諫めることもありました。頼朝に比べて大した功もないのに右大将任官を望むのは過ぎたることだと諫めたのです。しかし、実朝は「源氏の正当な血筋は自分で絶えるのだから、せめて高い官職について家名を上げるのだ」と答えました。側近の諫言も意に介さない実朝はこの後も異常な早さで昇進し続け、建保6(1218)年12月2日に右大臣に任ぜられると、翌建保7/承久元(1219)年1月27日、右大臣任官拝賀のため、鶴岡八幡宮参詣中に兄・頼家の遺児・公暁(くぎょう)に殺害されました。

承久の乱

実朝の言ったとおり源氏将軍は3代で途絶えてしまいました。幕政の中心はすでに将軍ではなくなっていたとはいえ、幕府と朝廷の関係は実朝と後鳥羽上皇の仲によっていいバランスを維持していました。それがなくなった時、求められたのは実朝のように朝廷との結びつきを保つだけの地位にある人物です。

そこで幕府は後鳥羽上皇の皇子(六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王)を候補にして鎌倉下向を願いますが、後鳥羽上皇の要件はそれとはまったく別の「寵愛する伊賀局の所有する摂津国長江・倉橋の地頭職の停止」でした。幕府が拒否すると、上皇も皇子の下向を拒否。幕府はしぶしぶ摂関家の九条道家の子・三寅(頼朝同母妹の曾孫。のちの頼経)を迎えることになりました。

上記の一件からも、後鳥羽上皇からは幕府を挑発する態度がありありと見て取れますが、承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇はついに軍事動員に踏み切ります。幕府執権の北条義時追討宣旨を発したのです。

幕府は朝廷軍を迎え撃つのではなく、京に進撃することを選び、朝廷軍に勝利しました。当初幕府では足柄・箱根で朝廷軍を迎え撃つ案が優勢だったのですが、広元は「待っている間に形勢が不利になるので、進撃すべき」と主張しました。かつては朝廷の官人で、その後も京とのパイプをもつ広元の論は、政子、三善康信(同じく京の下級貴族出身)の賛成により採用され、それが幕府を勝利に導いたのです。直接戦に参加したわけではありませんが、広元は最大の功労者といってもいいでしょう。

ちなみに、承久の乱で広元の長男・親広は朝廷軍に加わっていました。これはおそらく朝廷に近い有力貴族の源通親の猶子であったためだと考えられています。仕方なくとはいえ、本来処罰されてもおかしくないようなものですが、親広は父の功績のおかげか処刑されることはなく、広元の所領の出羽国寒河江(さがえ)に隠れ住みました。

広元が遺したもの

承久の乱から数年のちの元仁元(1224)年、協調関係にあった義時が急死し、その翌年の嘉禄元(1225)年6月10日に広元も亡くなりました。享年78歳。痢病(赤痢の類)が原因であったといわれています。

広元は最終的に正四位下まで昇り、幕府での序列を示す正月の将軍御所椀飯(おうばん)儀礼で将軍に祝いの膳を供する役目で、元日、2日、4日(元日に担当すると序列1位で、日付おそいほど下がっていく)など、高い地位を維持し続けました。

将軍が何度代替わりしても、広元の地位は揺らがなかったのです。それは協調関係にあった北条氏からの信頼のあらわれでもあったと思われます。広元の死後、鎌倉幕府の黄金期を築いたといわれる北条泰時は、広元の文書群を収集させました。これは「御成敗式目」制定の年になされたことでした。幕政に幅広く関わった広元の文書が集められたことと、法令「御成敗式目」は決して無関係ではないでしょう。幕府の始まりから行ってきた官僚・大江広元の仕事は、死後に遺産として政治のお手本になっていったのです。

広元の子孫

広元には七男四女がいたといわれます。親広の失脚後に次男の長井時広が嫡男となり、時広流が嫡流となりました。また、四男の毛利季光(「毛利」は相模国毛利荘に由来)は承久の乱で活躍して一時は時広を凌ぐほど地位を上げたようですが、宝治合戦で自刃しました。

この季光の子のうち死を免れた四男・経光の子孫が、安芸国吉田荘を拠点とする戦国武将・毛利元就の一族です。鎌倉の白旗神社にある頼朝の墓の近くにある広元と季光の供養塔は、江戸時代の文政6(1823)年に長州藩主の毛利斉熙(なりひろ)が建立したものと伝えられています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 上杉和彦『大江広元(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館、2005年)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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