「静御前」源義経の妾で、当代随一の白拍子だった女性

静御前(しずかごぜん)は、源義経の愛妾として知られる女性です。都で有名な白拍子でもあった静御前が、義経と別れた後に鎌倉へ送られ、鶴岡八幡宮で舞を舞った際に夫義経を慕う歌を歌ったエピソードは有名です。

静御前に関する史料は少なく、その生涯のほとんどは知られていませんが、彼女自身が有名な白拍子であったためか、あるいは歴史書『吾妻鏡』に書かれた上記エピソードが見事であったためか、後の時代には軍記物語『義経記』や彼女を主題にした謡曲『吉野静』『二人静』、浄瑠璃『義経千本桜』などの作品でよく知られ、親しまれてきました。

ここでは、主に『吾妻鏡』『義経記』を参照しながら、静御前について紹介します。

白拍子の静御前

白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞で、本来は歌舞それ自体を指しました。もともと男巫のする芸能であったようですが、次第に白い水干に鞘巻、立烏帽子姿の遊女が舞う「男舞」となり、それを生業とする女性を「白拍子」と呼ぶようになりました。

『平家物語』が鳥羽院の時代に島の千歳、和歌の前のふたりが舞ったのを白拍子の始まりとする一方、兼好法師の随筆『徒然草』が語る起源はまた違います。

「通憲入道、舞の手の中に興ある事どもをえらびて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。(中略)禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ白拍子の根源なり」
『徒然草』第二二五段「多久資が申しけるは」より

藤原通憲(みちのり/別名:信西入道。平清盛と結んだ後白河院の近臣)が磯禅師に舞を教えて舞わせ、その娘の静が芸を受け継いだ。それが白拍子の起源である、としています。

静御前の母・磯禅師(いそのぜんじ)もまた史料の乏しい人物で、讃岐国(現在の香川県)小磯の人で、通憲に男舞を習ったことくらいしかわかっていません。静御前はこの母から芸を教わり、白拍子として名を揚げたのでした。

源義経の妾として

義経と関連して静御前が登場するのは、源氏が平家を滅亡させた後のことです。

一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど、数々の戦で活躍して平家を滅ぼした義経は英雄となっていましたが、次第に兄・頼朝と関係を悪くしていきました。これは頼朝の側近・梶原景時が、壇ノ浦の戦いでの義経の協調性のない振る舞いについて悪口を言ったこと、義経が頼朝の許しもなく勝手に任官したこと等がその理由とされています。

鎌倉へ入ることも許されず孤立した義経が頼朝に反旗を翻し、同じく頼朝と対立していた叔父の源行家と手を組むと、鎌倉で義経追討が決定されました。この追討の役目を任されたのは土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)という人物。土佐房昌俊平は文治元(1185)年10月に義経の邸を襲撃(『吾妻鏡』によれば10月17日)しましたが、失敗に終わっています。『源平盛衰記』では、この事件の話の中に静御前の名が初めて登場します。

その時点ですでに義経の妾(しょう)になっていたものと思われますが、ふたりがいつごろ出会ったかはわかっていません。

その後、義経は頼朝に先んじて後白河院に頼朝追討の院宣を発するよう頼み込み、10月18日に発せられました。しかし、義経とともに鎌倉に歯向かおうという武士は少なく、うまくいきません。そうこうしているうちに頼朝が鎌倉を出発すると、後白河院は頼朝を恐れ、11月には義経・行家追討の院宣を発しました。

朝廷にもそっぽを向かれた義経は、院宣が下される前に行家とともに西国をめざしました。この都落ちには、静御前を含む数人の女性も同行していたといわれます。しかしその一行も大物の浦(現在の兵庫県尼崎市)からの船旅で暴風に遭い転覆して散り散りになり、最後は義経、武蔵坊弁慶、源有綱、堀景光、静御前の5人にまで減ってしまったとか。

義経との別れ

静御前は義経とともに吉野山へ入りましたが、ここでふたりは別れます。室町時代に成立したとされる軍記物語『義経記』にその別れが描かれています。かなり時代が下ってからできた書物なので、すべてを事実と見ることはできず、ほとんど創作と思われますが、義経と静御前の別れが具体的に描かれているということは、それだけ静御前が世の人々に人気であったということでしょう。

『義経記』には、吉野山でのふたりの別れから、ひとりになった静御前が正体を知られて北白川へ送られるまでが詳細に描かれています。

吉野山に入った義経は静御前を都へかえそうと決意し、別れを告げて数々の財宝を与えると、数人の共人をつけて別れを告げました。しかし義経が静御前に与えた共人は財宝をすべて奪って姿を消したため、静御前はたった一人で泣きながらさまようことになります。このあたりは読者の同情心を誘うための誇張でしょうか。

山中を歩き回った末に蔵王権現の灯籠の灯を見つけて大勢の人にまぎれて参拝していると、静御前は老僧に声をかけられて白拍子の謡を披露することになりました。その終わりに謡ったのが次の謡です。

「在りのすさみの僧きだに、在りきの後は恋しきに、飽かで別れし面影を、何時の世にかは忘るべき。
別れの殊に悲しきは、親の別れ子の別れ、勝れてげに悲しきは、夫妻の別れなりけり」
『義経記』巻第五「静吉野山に捨てらるる事」より

「一緒に暮らしている時は憎いと思うことがあっても、いなくなってしまった後になれば恋しく思うものなのに、飽きたわけでもなく別れてしまった愛する人の面影をどうして忘れることができようか。さまざまな別れの中でもとりわけ悲しいのは、親や子との別れだが、それにも勝って悲しいのは夫婦が別れることだ」という、愛する夫との別れを悲しむ謡です。

こうして見事な芸を披露した静御前は、都での白拍子としての名声を知る人により義経の妾だとバレてしまったのでした。

『吾妻鏡』文治元(1185)年11月17日条に、蔵王堂におりてきた静御前が僧たちが怪しまれ、自分は義経の妾であることを告げたという記事があるので、同地で静御前が見つかったのは事実なのでしょう。

鶴岡八幡宮で舞を披露する静御前

静御前はまず六波羅の北条時政のもとへ送られ、翌文治2(1186)年3月に母の磯禅師とともに鎌倉へ送られました。安達清常に預けられた静御前は、問注所の役人によって取り調べられ、かなり厳しく追求されましたが、義経の行方については知らないと答えるばかり。静御前の証言はあいまいで要領を得ませんでした。義経は静御前に今後の行先を知らせなかったのでしょう。

翌4月8日、頼朝と政子夫妻は鶴岡八幡宮を参詣しました。この時、静御前は舞を奉納するよう命じられます。これは「世に知られた舞の名人がせっかく鎌倉に来ているのだから、芸を見ずに帰すのはもったいない」という政子の希望によります。

実のところこれ以前から再三命じられていたのですが、静御前は病気だとか義経の妾が表に出るのはよくないとか言って断っていました。しかし今度は鶴岡八幡宮の回廊に呼び出され、とうとう舞うことになりました。

工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子でしぶしぶ舞った静御前は、こともあろうに頼朝の前で義経を慕う歌を歌います。

「よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこひしき」
「しづやしづ賤のをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」
『吾妻鏡』文治2(1186)年4月8日条より。濁点は筆者による

歌は、「吉野山で別れ、白雪をふみ分けて行ったあの人の跡が恋しい」「倭文(しず/織物)を織る麻糸を巻いたおだまき(糸玉)から繰り返し糸が繰り出すように、昔を今にする方法があったらいいのに(義経の良かった時代を今に変えられたらいいのに)」という内容です。

これを見ていた人のほとんどは感動しましたが、頼朝は怒りました。鶴岡八幡宮で奉納のため舞うならば関東の万歳を祝うべきなのに、義経を恋しく慕う別れの歌を歌うとはけしからんと言うのです。頼朝の怒りは政子が「私も昔父の反対を押し切ってあなたのもとへ走り、石橋山の戦いの時は頼朝の生死がわからず不安でした。静御前が別れた義経を思う心境はよくわかります」と言ってなだめたため事なきを得て、逆に褒美を与えられることになりました。

しかし、政子のとりなしがなければ無事ではなかったかもしれません。夫を追討しようという人の前で堂々と義経を思う心を歌にした静御前は、物怖じしない強さをもつ、一本芯の通った女性だったのではないでしょうか。

翌5月14日に静御前の宿所で酒宴が開かれた際、酔った梶原景茂が艶言(男女の色めいた言葉)を投げかけられた静御前が「義経は鎌倉殿の弟で、私はその妾なのに、御家人の分際でなぜ普通の男女の関係のように考えるのか。義経がこんなことにならなければあなたなんて対面さえできないはずなのに、ましてこのような艶言なんてもってのほかだ」と泣きながら怒ったという記事があります。これもまた静御前の芯の強さを示すエピソードといえるでしょう。

義経の子

前年に義経と別れた静御前は、その時義経の子を宿していました。鎌倉に入った静御前の妊娠を知った頼朝は、生まれる子が女児であれば許すが、男児であれば殺すと決めます。

文治2(1186)年閏7月29日、出産まで鎌倉に留められていた静御前は男児を出産しました。静御前を預かっていた清常が子を連れて行こうとしますが、静御前は子を抱きながらしばらく泣き続け、離そうとしません。磯禅師が清常の様子に恐れてどうにか言い含め、子を渡しました。

あまりにひどく悲しむ静御前の様子に、政子も「何とか助けてやれないか」と頼朝に願いましたが許されず、生まれたばかりの男児は由比ヶ浜で殺されてしまいました。

悲しみもまだ癒えない9月16日、静御前は磯禅師とともに鎌倉を発ち、京へ帰りました。静御前に同情した政子とその長女の大姫は、たくさんの贈り物をしています。その後の静御前については知られていません。



【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 校注・訳:梶原正昭『新編日本古典文学全集(62) 義経記』(小学館、2000年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:永積安明『新編日本古典文学全集(44) 方丈記/徒然草/正法眼蔵随聞記/歎異抄』(小学館、1995年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 安田元久『源義経』(新人物往来社、1993年)
  • 円地文子監修『人物 日本の女性史 第三巻 源平争乱期の女性』(集英社、1977年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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