「岡崎義実」源氏への忠義に厚い三浦一族の御家人

東滋実
 2022/09/06
岡崎義実(おかざき よしざね)は相模国三浦郡を本拠とした三浦義継の子で、三浦義澄の叔父にあたります。三浦一族は源頼朝挙兵時から頼朝をたすけ、鎌倉幕府の重臣として活躍しました。義実もそのひとりです。

石橋山の戦いで長男を亡くす

治承4(1180)年8月、頼朝は以仁王の令旨にこたえて挙兵し、まず伊豆目代の山木兼隆を討ちました。

その襲撃の日程を決めた8月6日、『吾妻鏡』は、頼朝は自身のもとに集まった武士たち一人ひとりを呼び出し、それぞれに「お前を一番頼りにしている」と伝えたと記しています。その中に「岡崎四郎義實」の名があり、挙兵の早い段階から義実が頼朝のもとに駆け付けていたことがわかります。

首尾よく山木兼隆を討った頼朝はその勢いで相模国へ入り、同月23日に石橋山(現在の神奈川県小田原市)で平家方の武将・大庭景親(おおばかげちか)と戦いました(石橋山の戦い)。

しかし頼りにしていた三浦の軍勢が天候の影響で間に合わなかったこともあり、頼朝方は大敗してしまい、ばらばらになって山中を逃れました。この戦いで義実は先陣を務めていた長男の佐那田義忠を亡くしています。

『延慶本平家物語』には、先陣で戦った義忠の戦いぶりが詳しく書かれています。それによれば、義忠は大庭方の武士。俣野景久と取っ組み合いの戦いを繰り広げ、景久の一族の長尾定景に討ち取られてしまいました。

頼朝自身それを見て義忠の戦いぶりをよく覚えていたのか、文治6(1190)年正月20日に三島・箱根などを詣でた際、途中の石橋山で義忠とその従者の墓を見て涙したことが『吾妻鏡』に記されています。

山中を逃れた頼朝は三浦一族の協力を得て脱出し、鎌倉入りしました。10月、頼朝はどこに館を建てるか検討する際、亡き父の館があった亀ヶ谷(かめがやつ。現在の扇ヶ谷)を候補地として考えていましたが、最終的には大倉郷を選びました。

その理由のひとつが、亀ヶ谷に義朝の菩提を弔うお堂が建てられていたことです。平治の乱で敗死した義朝を供養するために、義実が建てたものでした。

義実の逸話


義実の人物像がうかがえるエピソードがいくつかあります。

三浦義澄が納涼の宴を開いた際、酔った義実は頼朝が来ていた水干(すいかん。狩衣の一種)を賜りたいとねだり、下賜されました。これを上総介広常がねたんで、「こういう美しい服は私のような者が拝領すべきで、義実のような老い耄れがもらうなんてとんでもない」と言ったため、義実が激怒して口論になりました(『吾妻鏡』治承5(1181)年6月19日条より)。

義実に言わせれば広常なんて兵力だけで、頼朝挙兵時から馳せ参じた義実の忠に比ぶべくもないと。なおも喧嘩を続ける両者を仲裁したのは佐原(三浦)義連でした。

義連は義実に「若老狂之所致歟(老いて気でもふれたのか)」とこれまた酷い言いようなのですが、身内ゆえの気安さでしょうか(義実は義連の叔父)。しょうもないことで喧嘩する様子はコメディ色のある「鎌倉殿の13人」そのままのようで、実際の関東武士たちもドラマのような感じだったのではないかと想像します。

同じく『吾妻鏡』に記された別の逸話に、義実の慈悲深さを伝えるものがあります。

義実は頼朝に長男・義忠を殺した長尾定景の身柄を与えられていました。処分を一任されていたのですが、義実は元来慈悲深い人であったため殺すことができませんでした。定景は囚人として過ごす中、毎日法華経を読経し続けていました。その様子を見ていた義実は、「夢のお告げがあった」と言って、「定景は子の敵なので殺さねば心は晴れないけれども、読経の声を聞くごとに恨みはなくなっていきます。もし彼を殺してしまえば死んだ義忠にとってよくないことになるかもしれないから、赦してやってください」と頼朝に願いました。頼朝は義実に一任したのだから、思うようにしてやろうと定景を赦した、ということです(『吾妻鏡』治承5(1181)年7月5日条)。

貧しさに苦しんだ晩年

頼朝旗揚げ時から仕えた義実の晩年は、彼の忠義心ややさしさを見た後では少しかわいそうに思えるほどです。

文治4(1188)年には土地をめぐって波多野義景と争い訴訟に負け、建久4(1193)年に出家。この時すでに80歳を超えていたので、老齢であることが理由でした。

そして頼朝の死後の正治2(1200)年3月、義実は政子を訪ねます。老いた義実は病に苦しみながら貧しい生活を送り、頼るべき人もいない。今ある所領は亡き息子・義忠の菩提を弔うために寺へ寄進するつもりなので、あとは針を立てるほどの土地もない。これでは子孫の行く末が案じられると泣いて訴えたのです。

政子は義実に領地を与えるように二代将軍・頼家に伝えましたが、義実は数か月後の6月21日に89歳で亡くなりました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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