源頼朝の裁判 鎌倉殿が裁き、側近、名将も思わぬ敗訴…その顚末は?

神奈川県鎌倉市雪ノ下にある大蔵幕府舊蹟の碑
神奈川県鎌倉市雪ノ下にある大蔵幕府舊蹟の碑
 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、「鎌倉殿」源頼朝が裁判官となって御家人の争いを裁く場面が記録されています。行政、立法、司法の三権分立の概念もない時代、武家政権のトップ・征夷大将軍である頼朝にとって御家人の紛争を直接解決することも重要な役割だったのです。

 その裁判では頼朝の側近武将や信頼の厚い武将が敗訴した例もあります。近い立場の者でもえこひいきせず、ある程度の公平さが確保されていたことがうかがえます。また、裁判に負けるとそれなりに罰もありました。「鎌倉裁判」の意外な顚末をみていきます。

「梶原景時」VS.夜須行宗 戦功にケチつけて敗訴、罰は道路工事

 梶原景時(かじわら・かげとき)は頼朝側近の有力武将です。侍所の所司(次官)でありながら侍所別当(長官)・和田義盛よりも頼朝に信頼され、上総広常暗殺といった、ほかの者には頼めないような際どい仕事もこなしています。

 そして、梶原景時は密告、讒言の暗いイメージがつきまといます。同僚である有力御家人を監視し、頼朝に処罰を進言することさえもありました。平家追討の功労者・源義経に関する悪口を頼朝に吹き込み、ついに兄弟の仲を引き裂いたことでそのイメージも固まります。

 梶原景時が頼朝への書状で義経を手厳しく批判する場合は『吾妻鏡』にもありますが、何といっても、『義経記』での悪役ぶりや『平家物語』で義経と激しく口論となる場面が印象的で、その影響で歌舞伎などでも常に悪役として登場します。

証人登場で一件落着

 文治3年(1187)3月10日。頼朝面前の裁判で梶原景時は土佐の武士・夜須行宗(やす・ゆきむね)と対決します。問題となったのは平家を滅亡させた元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いです。

 夜須行宗は周防の武士・岩国兼秀、兼末を生け捕りにしたと主張し、恩賞を求めます。

景時:「壇ノ浦の戦いで夜須と称する者はいなかった。岩国兼秀らは自ら投降してきた」

行宗:「壇ノ浦の戦いで自分は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていた」

 春日部兵衛尉が呼び出されて尋問され、夜須行宗の訴えの正しさが証明されました。夜須行宗は無事、恩賞を受けます。

 一方の梶原景時。讒言で他人を貶めた罪に問われ、その罰として鎌倉中の道路整備を命じられます。たいへんな労役で、自分の家来も総出となり、経済的負担も大きいので罰は罰でしょう。しかし、頼朝としてはこうした仕事は梶原景時に任せておけば安心といった考えもあったのでないでしょうか。

最後は命取りになった讒言癖

 梶原景時は、文治3年(1187)11月には、「畠山重忠が謀反の準備をしている」と頼朝に密告して空振りに終わります。畠山重忠は頼朝から咎められることはありませんでした。また、正治元年(1199)10月には、結城朝光の発言を捉えて、頼朝の後継者・源頼家への謀反の心ありと密告しますが、御家人66人の梶原景時を弾劾する署名で反撃されて失脚。翌年の梶原景時の変でついに討たれてしまいます。梶原景時の讒言はむしろ失敗を招いている場面が多いのです。

「岡崎義実」VS.波多野義景 所領争いに敗れ、鶴岡八幡宮の宿直

 文治4年(1188)8月23日。岡崎義実(おかざき・よしざね)と波多野義景(はたの・よしかげ)が相模・波多野荘の北にある所領についての訴訟で争います。その所領は波多野義景が相続しましたが、岡崎義実が所有権を主張したのです。

義景:「祖父が次男の波多野義通に譲与し、義通が義景に譲った後は何の問題もなかったのです。どのような理由で(岡崎義実は)望むのでしょうか」

義実:「孫の先法師冠者に与えるとの義景の文書があります」

義景:「先法師冠者は義景の外孫です。祖父の私が生きているのに、どうして争うことがありましょうか。これは義実の悪だくみです」

岡崎義実はぐうの音も出ず、「子の将来を安定させるために申し出た」と無理筋の訴えだったことを認めたのです。頼朝が判決を下しました。

頼朝:「所領の処分は義景に任せる。義実のたくらみはいかにも不当である」

山賊逮捕 家臣の手柄で執行猶予

 頼朝は岡崎義実に罰も与えていて、100日間、鶴岡八幡宮と勝長寿院の宿直勤務を命じます。

 『吾妻鏡』には約1カ月後の9月21日の記事に、その顚末も記録されています。岡崎義実は数日間気に病んでいたといいますから、かなりの負担だったようです。しかし、岡崎義実の家来が箱根山麓で山賊の首領を逮捕。この見返りに岡崎義実に許しが出ます。執行猶予となったのです。

嫡男与一は討ち死に 頼朝挙兵時からの宿老

 岡崎義実は頼朝が挙兵したときから従っている武将で、年齢も高く、頼朝からも大事に扱われていました。頼朝としては気を遣わなければならない宿老です。

 治承4年(1180)8月23日、石橋山の戦いで岡崎義実の嫡男・佐奈田義忠(さなだ・よしただ)が25歳の若さで戦死。通称は与一で、「源氏の三与一」の一人です。頼朝に期待されて先陣を駆け、敵将・俣野景久と組み合ううちに長尾定景(通称・新六)らに討ち取られました。頼朝は後々も墓に立ち寄っては涙を流すほど佐奈田義忠の戦死を悼んでいました。

 また、岡崎義実は酒宴の席で、頼朝の水干を欲しがって与えられ、その場で着用して無邪気に喜び、挙げ句に華美な水干が似合うか似合わないかで上総広常とけんかになります。老人らしからぬ何ともかわいい場面です。父子ともども頼朝に忠節を尽くし、頼朝も気を遣っていた宿老ですが、裁判でのえこひいきはなかったようです。

「熊谷直実」VS.久下直光 尋問中にプッツン、そのまま出家

 健久3年(1192)11月25日。早朝から熊谷直実(くまがい・なおざね)と久下直光(くげ・なおみつ)が頼朝の面前で対決しました。所領の境界線争いでの口頭弁論です。頼朝が熊谷直実に尋問を繰り返しますが、直実は口下手で、その話は要領を得ません。そして、ついに逆ギレします。

直実:「梶原景時が直光をえこひいきして、この裁判は直光が有利になってしまう。これでは証拠の書面も必要ない」

 そのまま書面を庭に放り出して席を立ってしまいました。

同僚の前で髻を切り落とし出奔

 熊谷直実は同僚の集まる侍所で髻(もとどり)を切り落とし、何やら言葉を吐き捨て出ていきます。自分の家にも帰っていないということで、頼朝は家来に命じて熊谷直実の行方を捜索。直実の出家をやめさせるよう御家人、僧侶に通達しましたが、熊谷直実はそのまま出家しました。

 裁判は永福寺落成式典の当日。頼朝としても不愉快だったでしょう。なお、熊谷直実は前年の建久2年(1191)に既に出家しているとする史料があり、『吾妻鏡』に書かれた出家の顚末は脚色や創作の可能性もあります。

因縁の両者 小さな所領が隣接

 熊谷直実と久下直光は武蔵北部、現在の埼玉県熊谷市で小さな所領を接していました。

 そして、久下直光は熊谷直実の養父です。直実の父・熊谷直貞が若くして死去し、幼少期の直実を久下直光が養育したのです。直光の妻が直実の伯母という縁もありました。ただ、成長した熊谷直実は久下直光の配下を脱し、平知盛(平清盛の四男)の家臣となります。

 頼朝挙兵時、熊谷直実は石橋山の戦いで平家方の大庭景親に従っていました。

名場面「敦盛」

 当初は平家方だった熊谷直実ですが、その後は頼朝に味方し、活躍します。『平家物語』でも『吾妻鏡』でも戦功が目立っています。寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦いでは平家の御曹司・平敦盛の首を涙ながらに取った場面や、抜け駆けの一番乗りを平山季重と競う場面があります。熊谷直実と平山季重とは、治承4年(1180)11月、常陸・金砂城攻めでも一番乗りを競います。

 武勇が目立つ一方、文治3年(1187)8月には、鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)の流鏑馬(やぶさめ)で射手ではなく的立の役を命じられると拒否し、「役に優劣はなく、まして的立は下の役目ではない」と説得されても従わず、そのために所領の一部を没収されます。頑固一徹、武士の体面にこだわる面もありました。

おわりに

 頼朝の周りには自分の手柄を強く主張し、所領、恩賞の見返りにも貪欲な武士が多く、その裁定には頼朝も苦労が絶えませんでした。有力武将だけに手厚く報いるのではなく、少々目立たない武士もないがしろにせず、聞くべき主張には公平に耳を傾けたようです。そうしなければ、多くの武士たちのモチベーションは保てないと考えていたのです。

 創設したばかりの鎌倉幕府を安定させるため、公平な裁判を心掛けたのは、さすが武士の棟梁にふさわしい態度だったといえます。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』(岩波書店)岩波文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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