博徒の道を歩んだ清水次郎長の波乱の人生…海道一の大親分が見た時代の変化と清水の発展

清水次郎長の肖像(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/278">近代日本人の肖像</a>)
清水次郎長の肖像(出典:近代日本人の肖像
 幕末の東海道において、一大勢力を築いた人物がいます。それは、博徒から明治の実業家へと転身した清水次郎長(しみずのじろちょう)です。

 次郎長は船頭の子として生まれ、成長するにつれて米穀商の養子となりました。彼は太く短く生きることを決意し、博徒として喧嘩に明け暮れました。甲斐国や尾張国を行き来し、自身の清水一家を着実に拡大していきます。黒駒勝蔵との激闘や荒神山での喧嘩を経て、東海道一の大親分として名を馳せましたが、その裏には数々の苦難や別れがありました。

 明治維新後には博徒から実業家へと転身、清水の発展のために尽力しましたが、一時は博徒時代を理由に逮捕・投獄されることもありました。しかし、次郎長を慕う人々の協力により、再び表舞台で活動を行い、清水は大いに発展することとなりました。

 清水次郎長は、何を目指し、何と戦い、どのように生きたのでしょうか。彼の生涯を追ってみましょう。

米穀商の次男として生を受ける

 清水次郎長は文政3年(1820)に駿河国有度郡清水の美濃輪町(現在の静岡県静岡市清水区美濃輪町)で、船頭・高木三右衛門の次男として生を受けました。生まれてすぐに叔父で米穀商・山本次郎八に養子入りし、山本長五郎と名乗ります。

 父の三右衛門は持ち船を持つ船頭だったようです。あまりに豪胆な性格であったため、雲見ずの三右衛門とあだ名されるほどの人物でした。当時の清水港は、富士川を通じて甲斐国・信濃国の年貢米を江戸に輸送する一大拠点でした。その中で三右衛門は自ら商品を輸送する海運業に従事していたようです。

 養父・次郎八は米穀商として、甲田屋という店の主人でした。長五郎もゆくゆくは後を継いで商人になるものと、周囲は思っていたようです。しかし長五郎は幼い頃からガキ大将として知られ、暴れん坊の若者へと成長していきます。「次郎八の子の長五郎」であることから、長五郎は周囲から「次郎長」と呼ばれていたようですね。

 天保6年(1835)には次郎八が死去。十六歳の長五郎こと次郎長は、米穀商甲田屋の主人となりました。

商人から博徒の道へ

 商人の道を歩み始めた次郎長でしたが、決して満足はしていなかったようです。

 甲田屋を継いだ次郎長は妻を迎え、一人の商人として日々の暮らしを送っていました。しかし家業のかたわら、次郎長は博打に手を出して賭場に出入りするようになります。

 天保10年(1839)、旅の僧が次郎長の人相を見て言いました。

旅の僧:「25歳まで生きることができない」

 喧嘩っ早い性格を見抜いてのことだと思われます。20歳となっていた次郎長は、これに臆するところか「太く短く生きる」とより奮起。博徒として活動をはじめます。次郎長の喧嘩に明け暮れる日々がはじまるのです。

 しかし天保14年(1843)には喧嘩相手を斬殺し、次郎長は追われる身の上となってしまいます。妻と離縁し、姉夫婦に甲田屋の財産を贈与。弟分の江尻大熊らと共に清水を出奔して無宿人(人別改帳から外された人間)へ。その後、三河の寺津治助にわらじを脱ぎ、喧嘩に明け暮れる日々を送り続けました。

 転機となったのは、博徒同士の対決を仲介したことです。弘化2年(1845)、甲斐国(現在の山梨県に相当)で次郎長の叔父・和田島の太右衛門と津向文吉との間で出入りが発生。次郎長は庵原川で両者を調停し、対決を回避させて名を高めました。

 弘化4年(1847)には江尻大熊の妹・お蝶と結婚。清水の妙慶寺門前に許を構えました。当初の子分は十人ほどで、一家の暮らしは困窮していたようです。

 蚊帳はお蝶が嫁入りに持参した一つだけでした。次郎長は「皆と一緒に蚊に食われよう」と言い、決して蚊帳を使わせませんでした。代わりに妙慶寺の境内にある杉の小枝を折らせ、七輪で焼いて蚊燻しにします。そのため、寺の杉は一年であらかた枝が無くなってしまいました。

次郎長を支えた子分・28人衆

甲斐や尾張を転戦する

 次郎長の博徒としての人生は、波瀾万丈の連続でした。

 嘉永3年(1850)、尾張国で博徒同士の争いが発生しました。次郎長の弟分・保下田久六が一宮久左衛門を殺害するという事件が起きたのです。このとき、次郎長は久六を清水に匿いました。次郎長の威名が、駿河から尾張国まで及んでいたことを窺わせます。

 しかし、安政5年(1858)、次郎長は甲州に出入りして博徒・祐天仙之助と対立。これが契機となり再び追われる身となりました。当時は妻・お蝶が病を得て療養していました。しかし同年12月、尾張国の療養先で病没してしまいました。かつて助けた久六は、十手持ちとして次郎長捕縛のために活動しました。つまり次郎長は弟分に裏切られてしまったのです。

 追われる身となり、妻を失って弟分まで裏切る…。考えられる最悪の状況が次郎長を追い込んでいきますが、次郎長は決して諦めませんでした。この苦境に屈せずに四国に逃亡。実父・三右衛門の信仰を継いで、讃岐国の金毘羅に詣でています。 金毘羅は、海の神様として信仰されていました。 次郎長は、海を渡って清水に帰ることを願っていたのでしょうか。

 翌安政6年(1859)、次郎長は裏切った久六を討つべく尾張国に進出し、知多郡亀崎乙川で久六を斬りました。万延元年(1860)には祈願成就のために、子分・森の石松を讃岐国に派遣。金毘羅にお礼参りの代参をさせています。

 しかしこの帰り道で、石松を思わぬ悲劇が襲いました。沼津の博徒・都田吉兵衛らは帰途の石松を歓待。そのまま騙し討ちにかけて石松の命を奪いました。のみならず、同年9月には吉兵衛らが清水に上陸。次郎長らを襲撃するという事件が起きました。

28人衆と呼ばれた子分衆

 博徒として名を高めた次郎長は、争いの中に身を投じていきます。

 文久元年(1861)1月、次郎長は江尻追分で都田吉兵衛と対決。討ち取って、石松の仇を討ちました。同年10月、吉兵衛の兄弟分である下田金平とは手打ち。拡大する前に争いを収めています。

 こうした中で自身の清水一家を拡大していった次郎長は、多彩な人物を子分にしました。 代表的なのが大政や小政、桶屋の鬼吉などです。 これらの子分たちは講談などで「清水二十八人衆」と称せられるようになりました。

最大のライバル? 黒駒勝蔵

 やがて次郎長の前に強大な敵が立ちはだかります。甲斐国の博徒・黒駒勝蔵です。
文久3年(1863)、二人は天竜川で睨み合い、翌年(1864)には勝蔵を匿った雲風亀吉と平井村で衝突。死傷者を出す激闘を繰り広げています。

 今や東海道を取り仕切る大親分となっていた次郎長ですが、黒駒勝蔵は敵対意識を鮮明にし、大人数を連れて東海道を徘徊するという行動を繰り返していたようです。

荒神山の喧嘩を制する

 慶応2年(1866)、伊勢国で神戸長吉と穴太徳の間で縄張り争いが発生。穴太徳が荒神山の賭場を奪い取るという行動に出ます。

 次郎長は盟友・吉良仁吉の義兄弟である神戸長吉に味方、一方で勝蔵は穴太方に味方を派遣していました。穴太徳らは荒神山に百三十人を集めます。次郎長方は派遣された大政と、神戸長吉や吉良仁吉など二十人ほどでした。

 荒神山で仁吉は戦死。激怒した次郎長は戦後に東海道から四百八十人の博徒を集めて伊勢国に進軍します。結果、穴太徳らは恐れて次郎長に屈服。黒駒の勝蔵は捕まらず、姿を眩ませていました。

 やがて時代の荒波は次郎長のもとへも届くこととなります。

戊辰戦争と次郎長

 慶応4年(1868)、鳥羽伏見において、薩長新政府軍と徳川旧幕府軍が衝突。勝利した薩長が官軍となりました。

 次郎長は新政府軍に協力して東征大総督府から東海道筋の警固役を拝命します。一方で黒駒勝蔵は「池田勝馬」と名を変え、東征大総督府のもとで進軍する徴兵七番隊に入隊していたようです。

 こうした中、旧幕府艦隊の咸臨丸(かんりんまる)が房州沖(現在の千葉県南部沖)で暴風雨に遭遇。清水港に停泊したところを薩長新政府軍に攻撃され、乗員が死亡するという事件が起きました。

 当時、旧幕府軍は賊軍となっていました。新政府軍の怒りを買うことを恐れ、誰も咸臨丸の乗員の遺体を弔おうとはしませんでした。遺体が腐敗するまま放置された状況を見かねた次郎長は、清水港に船を出して遺体を収容して埋葬しました。

「死ねばみな仏。官軍も賊軍もない」

 収容作業を新政府軍に強く咎められますが、次郎長はそう言って聞きませんでした。旧幕臣・山岡鉄舟(のちの静岡藩大参事)はこの次郎長の心意気に感嘆し、明治となってから次郎長と交際しています。

実業家として清水の発展に尽力

 しかし新時代には、苦難や別れもありました。翌明治2年(1869)、妻であるお蝶(二代目)が静岡藩の新番組によって殺害。次郎長は再び妻を失っています。その中でも悲嘆に暮れることなく、次郎長は新たな事業に打って出ます。

 明治4年(1871)には、久能山の山林開墾を提唱。反対されて失敗に終わりますが、次郎長は諦めていませんでした。同年には旧敵であった勝蔵が脱隊及び過去の罪状で斬首されています。時代は変わりつつありました。

 明治7年(1874)には富士山南麓の開墾を開始。明治12年(1879)には油田開発にも乗り出しました。翌年には、敵対していた雲風竜吉らと手打ちして和解。実業家へと転身していきました。以降、次郎長は茶の販売や定期航路線のために会社を設立。私塾の英語教育を支援するなど活動しています。

 明治16年(1883)、赴任した静岡県令・奈良原繁は博徒の大規模逮捕を実行。翌年に次郎長も旧幕府時代の罪状を理由に逮捕され、懲罰7年の判決を言い渡されます。しかし新任の県令・関口隆吉らの尽力で明治18年(1885)に仮釈放が決定。次郎長は自由の身となりました。

 その後も次郎長は開墾事業に従事。清水の発展のために尽力する人生を送りました。
次郎長は明治26年(1893)に病没しましたが、その功績は今も清水の人々に語り継がれています。

おわりに

 博徒から実業家へと転身、幕末から明治にかけて、時代の変化に対応しながら、清水の発展に貢献した清水次郎長。その人生は波瀾万丈の連続で、喧嘩や別れ、逮捕や投獄などの苦難に満ちていましたが、それを乗り越えて、海道一の大親分として名を残しました。

 人に裏切られても、自分の信念を貫き、逆境にあっても希望を持って前に進み、人のために尽くして尊敬される… そんな次郎長の生き方は、今の私たちにも何かを教えてくれるのではないでしょうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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