「足立遠元」源頼朝の父・義朝の代から仕える源氏譜代の家人で、13人のひとり

東滋実
 2022/09/22
足立遠元(あだちとおもと)は武蔵国に本拠地を持った在地武士のひとりで、源頼朝の父・義朝の家人であったといわれています。平治の乱では悪源太源義平の精兵のひとりとして戦ったとされますが、鎌倉の御家人となってからは武将として戦うことはなく、鎌倉で官僚として活躍しました。

遠元の出自

遠元の出自を示す系図はいくつかありますが、よくわからないところが多く、系譜ははっきりしません。『尊卑分脈』によれば、遠元は藤原北家魚名流で、遠兼の子とされています。一方「足立氏系図」は藤原北家勧修寺流としています。こちらも遠兼を父としていることは同じですが、それ以外に怪しい点が多いのが問題です。

本来足立氏とは別の氏族である安達盛長が遠元の伯父(尊卑分脈)、息子(足立氏系図)となっていることからもそれがわかります。また、いずれにおいても藤原北家の分家の流れを汲んでいることになっており、『吾妻鏡』の中で遠元が「藤内遠元」や「藤原遠元」などと呼ばれていることもあるため、遠元自身が藤原姓を自称していた可能性は考えられますが、系図によりばらばらで父祖がはっきりしない以上、後の時代になって無理やり藤原氏と結びつけたと考えることもできます。

安田元久氏は、「もし遠兼・遠元が藤原を称していたとすれば、それは足立氏が藤原氏との婚姻関係とか、政治的結合関係とか、何らかの理由で藤原の姓を冒したものであろう」とされています(『読み直す日本史 武蔵の武士団 その成立と故地を探る』より)。

源家譜代の家人

足立遠元は武蔵国足立郡(現在の東京都・埼玉県)を本拠地とする在地武士のひとりです。いつごろから源氏の家人であったかはわかりませんが、源頼朝の父・義朝が戦った平治の乱に加わっていたようです。義朝の軍勢の多くは武蔵武士で構成されていました。平治の乱での遠元の活躍ぶりは、軍記物語『平治物語』に見えます。

物語のためどこまで事実に沿っているかはわかりませんが、遠元は「悪源太」と呼ばれた源義平(義朝の長子)に従い、17騎の精兵のひとりとして戦ったようです。

その中には、遠元のやさしさをうかがわせるエピソードも。

遠元は弓矢も太刀も失った金子家忠から「替えの太刀があれば貸してくれ」と頼まれ、替えはなかったものの、自身の郎等の太刀を渡してやりました。遠元に太刀を奪われた郎等は「自分は役に立たないから太刀を取り上げられるのだ」とショックを受けて去ろうとしますが、遠元は現れた敵を射落として太刀を奪い、それを郎等に与えました。

味方とはいえ功を競う相手に太刀を与えてやった遠元の美談です。

平治の乱で義朝は敗れて逃走する途中で亡くなってしまいますが、途中で主君と分かれ国に戻った遠元は無事でした。平治元(1159)年12月10日の除目(じもく)で右馬允(うまのじょう)に任ぜられた遠元が主家の敗北後どうなったかはわかりませんが、その後も右馬允を名乗っていたようです。それは『吾妻鏡』にあらわれる遠元の名が「右馬允遠元」であることからもわかります。

頼朝の挙兵に従い、本領安堵される

治承4(1180)年8月、頼朝は伊豆で挙兵しました。最初の山木兼隆を襲撃した戦いは勝利に終わったものの、続く石橋山の戦いでは平家方に大敗を喫しました。なんとか安房国(現在の千葉県南部)へ逃れて九死に一生を得た頼朝は再起を図り、関東の武士たちを集め始めます。

同年10月2日、武蔵国に入った頼朝をいの一番に迎えたのは豊島清元と葛西清重でしたが、遠元も頼朝を迎えるために向かってくる途中でした。『吾妻鏡』の同日条によれば、遠元はあらかじめ命令を受けて墨田の宿所へ向かったようです。同8日、遠元は頼朝に本領を安堵されています。これは東国武士として最初の例で、それだけ遠元に対する信頼が厚かったことがうかがえます。

武士として唯一公文所寄人に加わる

遠元は武蔵国に強力な武士団を持っていたと考えられ、上記のように軍記物語に美談が描かれるほどの活躍を見せたらしい武将でしたが、治承・寿永の内乱で戦ったという記録はなく、ずっと鎌倉に留まっていたようです。

元暦元(1184)年10月6日、頼朝は公文書を扱う公文所(くもんじょ)を設置しました。大江広元を別当に、中原親能、二階堂行政、藤原邦通、そして遠元が寄人に選ばれました。遠元以外の4人はみな朝廷の下級官人や都の貴族の家人をしていた人物で、遠元は唯一在地武士として加わったのです。

遠元は頼朝が都出身の客人(平頼盛や一条能保ら)をもてなす際、都の文化や生活をよく知る「京都に馴れるの輩」のひとりとして出席しています。関東の武士ではありましたが、義朝の家人であったころに都で過ごしたことがあったのでしょうか、都文化に明るい御家人として頼朝に重用されていたようです。

建久10(1199)年正月13日に頼朝が亡くなり、嫡男の頼家が2代将軍になると、遠元は宿老で構成された「十三人の合議制」の一員になりました。頼朝の死後、比企氏、畠山氏、小山田氏らが内乱の末に滅亡していく中で足立氏は生き残り続けたので、宿老としてそれなりの地位を維持していたのでしょう。

しかし遠元の記録は『吾妻鏡』の承元元(1207)年3月3日の闘鶏会に参加した記事を最後に見られなくなり、そらから間もなく亡くなったと考えられます。遠元が頼朝の父・義朝の時代から仕えていたことを考えると、頼朝の一世代上、年齢は北条時政や三浦義澄らに近かったのかもしれません。

遠元の没後

遠元が亡くなった後、嫡流を継いだ元春の子孫は弘安8(1285)年の霜月騒動(弘安合戦)で北条得宗家と敵対した安達泰盛に味方し、敗れて没落しました。足立氏の所領は北条氏のものとなり、残った足立一族も得宗家の家人になりました。

一方、庶流のうち元春の弟の遠光の子孫は承久の乱の功により丹後国佐治庄(現在の京都府北部)の地頭職を与えられ、同地で発展していったようです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 安田元久『読み直す日本史 武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
  • 埼玉県桶川市公式ホームページ
    「武蔵武士「足立遠元」に迫る」
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      この記事を書いた人
    東滋実 さん
    大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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