「二階堂行政」二階堂氏の祖。幕府を支えた官僚で、鎌倉殿の13人のひとり
- 2022/09/22
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は大河ドラマではイマイチ存在感のない人物ですが、幕府草創期から官僚として活躍しました。行政を祖とする二階堂氏は代々政所執事を世襲し、幕府の文官として重きをなしました。名は体を表すというか、文官になるべくしてつけられたような名前で覚えやすい人物ですよね。
二階堂行政の出自
行政の生没年は不詳です。『尊卑分脈』によれば父は藤原行遠(ふじわらのゆきとお。工藤行遠とも)という貴族で、母は熱田大宮司藤原季範(ふじわらのすえのり)の妹とされています。季範といえば源頼朝の父・義朝の正室・由良御前の父。つまり季範は頼朝の外祖父に、行政は頼朝のいとこおじにあたります。行政が早い時期から幕政に加わるようになったのは、母方の家で頼朝とつながりがあったためでした。ちなみに、行政が名乗り始めた「二階堂氏」は行政が住んだ場所からとられています。行政の邸宅は二階堂と呼ばれた永福寺(現在の鎌倉市二階堂)のそばにあったため、この名を名乗るようになりました。
もとは藤原氏南家出身の藤原為憲(ふじわらのためのり)に始まる、伊豆国(現在の静岡県)の工藤氏から分かれた一族です。「鎌倉殿の13人」に登場した伊東祐親や工藤祐経らも同じ一族です。
鎌倉幕府の官僚として
行政は当初、朝廷の下級官人として仕えていたようで、頼朝が挙兵した治承4(1180)年には、主計寮(かずえのつかさ)の守公神宝殿修造の際の材木などを準備したことを評価されて正六位上・主計少允(しょうじょう)に任ぜられています。主計寮とは、その年の調庸などの貢納分を計算して来年の収支予算を立てる部署。現代で言うと財務省に近いかもしれません。行政が鎌倉幕府による歴史書『吾妻鏡』に登場するのは、元暦元(1184)年8月24日のこと。頼朝が新たに設置した公文所(くもんじょ)で吉書始(事が改まったときに吉日を選んで文書を総覧する儀式)が行われ、その場に大江広元らとともに参加しています。
公文所は公文書を取り扱う役所で、平安時代には諸国の国衙などに置かれました。鎌倉もこれにならって公文所を設置し、大江広元を別当に、その下の寄人として中原親能・藤原行政・足立遠元・大中臣秋家・藤原邦通らが任命されています。行政は奥州合戦や頼朝の上洛の際に右筆として従い、文書作成を担いました。
公文所は文治元(1185)年あるいは建久2(1191)年正月に「政所(まんどころ)」と名をかえました。文治元年説では、頼朝が平宗盛を捕えた功により正四位下から従二位に昇叙され、貴族社会の慣習にならって政所に改めたとされています(政所は三位以上の家が置く家政機関であることから)。建久2年説は頼朝の右近衛大将補任のころで、『吾妻鏡』ではこの年初めて「政所」の語が登場することから挙げられています。
政所は幕府の政治を行う最高政務機関で、長官を別当とし、令・案主(あんず)・知家事からなります。行政は建久2年正月に次官にあたる政所令に任命され、建久3(1192)年に民部少丞、建久4(1193)年には民部大夫となり、同年別当に昇任しています。
建久10(1199)年正月13日に頼朝が急死し、嫡男の頼家が2代将軍に就任すると、鎌倉幕府では4月に「十三人の合議制」が始まりました。これは頼家の親裁を停止して宿老13人が合議によって決める体制(親裁の停止については異説もあり)で、行政もそのメンバーに含まれています。
のちに北条氏による執権政治が始まると、北条時政や義時が政所別当となり、執権・連署として幕府の最高責任者となって北条氏に権力が集中し、政所は行政やその子孫たちが政所執事として財政事務を担いました。
その後、『吾妻鏡』に行政の名は登場しなくなります。行政がいつごろまで実務官僚として活躍し、いつ亡くなったかはわかっていません。
行政の子孫
行政を祖とする二階堂氏は先述のとおり政所執事を世襲し、幕府の文官として長く栄えました。鎌倉幕府が滅亡した後も二階堂氏は建武の新政府で能力を買われ、重用されています。室町幕府でもはじめ二階堂氏が政所執事を務め、鎌倉府でも同様に政所執事に任命されています。【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
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