「源経基」武家源氏の祖は将門、純友の追討にどう関係したのか

菊池容斎画『前賢故実』にみえる源経基の像(出典:wikipedia)
菊池容斎画『前賢故実』にみえる源経基の像(出典:wikipedia)
源経基(みなもとのつねもと)は「武士の棟梁」清和源氏の始祖です。承平天慶の乱(935~941)では、平将門の乱でも藤原純友の乱でも追討軍の武官として名を連ねています。すると、名門武家のルーツにふさわしい活躍があったのかと期待してしまいますが、2つの乱には想像とは違う形で関わっています。ちょっと暗い面もあるのです。源経基とは、どんな人物だったのでしょうか。

清和源氏の始祖「六孫王」

源経基は清和天皇の孫であり、父・貞純親王が清和天皇の第6皇子であることから「六孫王」と呼ばれます。臣籍降下前の呼称なのか、後世の人々によるニックネームのようなものなのか、はっきりしていません。

平安時代中期の人物ですが、生没年は諸説あります。『尊卑分脈』は応和元年(961)、45歳で死去とあるので、延喜17年(917)生まれになりますが、長男・源満仲(みつなか)が延喜12年(912)生まれとみられ、矛盾します。

ほかの史料では、天徳2年(958)、45歳で死去とあり、延喜14年(914)生まれとなりますが、これも矛盾。ほかに寛平2年(890)、寛平5年(893)生まれの説もあります。

父・貞純親王(873?~916年)や長男・満仲(912?~997年)の生没年から、9世紀末ごろの寛平年間(889~898年)かその前後の生まれとみていいと思います。なお、死後、満仲によって邸宅跡に葬られ、その地には経基を祀る六孫王神社(京都府京都市南区)があります。

※参考:清和源氏の略系図
※参考:清和源氏の略系図

父・貞純親王は早世

源経基は、武蔵介など国司を歴任し、武官としての栄誉職・鎮守府将軍にも就き、位階は正四位上で、貴族としては出世したといえます。父が親王なので、もっと高い官位を得てもおかしくないのですが、若いときに父・貞純親王が死去し、後見を失っているとすれば、仕方ないのかもしれません。

なお、陽成天皇の皇子・元平親王が源経基の父とする史料もあります。通説では伯父にあたる陽成天皇が祖父となるわけです。これは、経基の孫・源頼信が誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)に奉納した告文(願文)の写しで、明治時代に発見された文書「源頼信告文」ですが、専門家の間でも重視する人や信憑性を疑う人がいて、意見が分かれています。この説を採らないとしても、父・貞純親王の死後は陽成天皇・元平親王父子の庇護を受けた可能性はあります。

清和源氏は源氏21流の一つ

実は「源氏=武士」ではありません。むしろ、「源氏=貴族」といっても間違いではなく、そもそも源氏は清和源氏だけではありません。

源氏は、天皇家の子孫から姓を賜って皇籍を離れる臣籍降下によって誕生した氏族です。臣籍降下の理由はいろいろありますが、簡単にいえば、リストラです。

例えば、嵯峨天皇には皇子皇女が50人いたとされます。これらを皆、親王、内親王に処遇すれば、財政負担も大きくなります。臣籍降下しても高官に就けば、結局は高額の報酬を支出するので同じことですが、臣籍降下した源氏が高官に就くのは1代か2代。天皇の代替わりで関係性も薄れていきます。

弘仁5年(814)、嵯峨天皇の皇子皇女8人が臣籍降下して源の姓を与えられたのが、源氏の始まり。ルーツとなる天皇別に宇多源氏、村上源氏など21の系統があり、「源氏21流」といわれます。「源」の姓は、天皇と同じ源という意味を持ちます。『魏書』から中国の故事を参照しています。

皇族から臣籍降下した氏族では平氏も有名です。桓武天皇をルーツとする桓武平氏を筆頭に、仁明、文徳、光孝の4系統です。

源氏にしろ平氏にしろ貴族として活躍が期待されますが、上級貴族として繁栄が続く家系は限られ、皇族がルーツでありながら臣籍降下後、数代で中級貴族へと没落していきます。国司を歴任して地方に拠点を持ち、その中から武士団を形成する家も出てきます。近江を基盤とした佐々木氏は宇多源氏、摂津を基盤として渡辺氏は嵯峨源氏。清和源氏以外にも武士団を輩出した源氏はあります。

また、嵯峨源氏、村上源氏など武家ではなく貴族として成功した公家源氏もあります。むろん、現代から見れば、最も有名な源氏は清和源氏であり、武家の源氏です。

将門を密告、一時拘禁も

『将門記』には源経基の具体的な行動と性格が記されています。承平8年(938)2月中旬の武蔵国での紛争です。経基は武蔵介でしたが、武蔵権守・興世王(おきよのおう)とともに、足立郡司・武蔵武芝と争います。そこに平将門が仲介役として登場し、経基と将門の確執が生じます。

武蔵権守・興世王と武蔵介・経基は京から赴任した貴族で、武蔵武芝は現地有力者として郡司を務めていました。『将門記』はまず、武蔵武芝は理にかなった治政で武蔵国内の名声を得ており、代々の国司も武蔵武芝の立場を尊重していたと前置きします。

『将門記』では悪役の経基

興世王と源経基は立ち入り検査をしようとします。納税不足の調査か、あるいはそれを理由として人々の財産を強奪しようとしたのでしょうか。武蔵武芝は「正式の国守赴任前にそのような前例はない」として拒否しますが、興世王は無礼だと武蔵武芝を咎めます。武蔵武芝が争いを避けて身を隠すと、興世王らは武蔵武芝の家屋を焼き払い、縁続きの者の家を襲い、財産を差し押さます。『将門記』は興世王と経基について、悪人の手口を身につけ、盗賊の心を持っていると非難し、一貫して武蔵武芝の肩を持ちます。

武蔵武芝は略奪された物の返却を文書で訴えますが、興世王と経基は合戦の用意をします。ここで、将門が軍兵を率いて駆け付けます。このときの将門は親族と合戦している状態で、官職もなく、武蔵の紛争を解決する立場でもないのですが、前年の承平7年(937)11月に争っている親族を追討する官符(命令書)を手にしており、いわば官軍。さらに関東最強の軍事力を有しているとの自負があったのか、あるいはその力を誇示したかったのか、親しくもない武蔵武芝と連れ立って武蔵国府に向かいます。合戦の準備をしていた興世王と経基は山にこもっていましたが、興世王は国府に現れます。ここで将門、武蔵武芝、興世王は酒宴をし、和解します。

山に残っていたのは経基だけですが、武蔵武芝の一部の兵に包囲され、経基の兵はバラバラに逃げ散りました。ここでは、経基は軍事的な未熟さをさらしており、とても「武士の棟梁」のルーツらしい姿はありません。

「将門謀反」は虚言と認定

天慶2年(939)3月、源経基は平将門と武蔵権守・興世王を告発します。これは『貞信公記』でも裏付けられています。

経基はこのとき、将門と興世王が武蔵武芝に誘われ、自身を討とうとするのではないかと疑心暗鬼になっていたのです。さらに復讐心から将門と興世王に謀反の疑いありと奏上しました。これに朝廷は大騒ぎになります。落ち着いていたのは太政大臣・藤原忠平で、将門に「謀反の実否を明らかにせよ」と御教書(命令書)を発します。将門が反論書を提出すると、その言い分が認められます。武蔵国の紛争を平和的に解決したと好意的に受け止められていたのです。

天慶2年(939)6月、経基は左衛門府に拘禁されます。これも『貞信公記』に記録されています。将門謀反の奏上が虚言だったと認定されてしまったのです。

立場一転、将門追討軍副将に

しかし、実際には平将門は謀反の兵を挙げました。天慶3年(940)1月18日、参議・藤原忠文が征東大将軍に任命され、源経基も副将の一人として将門追討に向かいます。その前に経基は従五位下の官位を授かります。将門への讒訴による拘禁が撤回され、立場が一転したのでしょう。

しかし、この藤原忠文率いる朝廷軍が現地に到着する前に将門の乱は鎮圧されていました。経基は残党狩りには参戦したようです。逃げ散った将門配下の将兵が関東のあちこちで逮捕、斬首されました。

純友の乱の平定にも参加

平将門の乱の後、帰京した源経基は天慶3年(940)8月、追捕使次官に任じられ、藤原純友追討に参加します。天慶4年(941)5月、追捕使・小野好古(おののよしふる)らが純友を撃破した大宰府合戦に参加。その後も大宰権少弐・大宰府警固使として残党掃討に腕を振るいます。そして、乱の後も太宰大弐として現地に残ります。

残党掃討戦で武勲を誇示

大宰府合戦で小野好古に大敗した藤原純友は同年6月、潜伏先の伊予で橘遠保(たちばなのとおやす)に討ち取られます。一方、源経基は散り散りになった純友派残党狩りで戦功を挙げます。

9月6日、豊後国佐伯院で桑原生行と合戦、生け捕りにしました。桑原生行は重傷を負っていて拘禁中の9月8日に死亡。経基はこれを斬首し、大宰府に送ります。大宰府は敵将の首級を朝廷に送ろうとしますが、経基は自分が持って帰京すると言い張ります。

11月29日、経基は桑原生行の首と捕虜・佐伯是基を伴い上洛します。佐伯是基は8月の残党掃討戦で敗れ、藤原貞包に生け捕りになり、そのまま大宰府に留置されていました。経基は自身の戦功を誇示したかったのです。後の世にも武勲にこだわった行動を取る武士は多数いて、武士らしいといえば武士らしいのですが、大物の振る舞いとはいえません。

子孫が大繁栄

源経基の長男・源満仲、次男・源満政、三男・源満季(みつすえ)らは武力で朝廷に仕え、地方に拠点を持ち、武士団を形成していきます。いよいよ源氏武士団が形になっていくのです。

そして源満仲の長男・源頼光は摂津源氏の祖、次男・源頼親は大和源氏の祖、三男・源頼信は河内源氏の祖となります。河内源氏は、頼信が平忠常の乱(1028)を、その次代の頼義・義家父子が前九年合戦(1051~62)、後三年合戦(1083~87)を平定し、「武家の棟梁」の地位を固めます。

子孫には、鎌倉幕府将軍・源頼朝、室町幕府将軍・足利尊氏、木曽義仲、源義経、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、戦国大名・武田信玄と数多くの武将がいます。また、摂津源氏は、酒吞童子討伐の頼光のほか、鵺退治の源頼政を輩出。頼政は以仁王挙兵で源平合戦のきっかけもつくりました。

ただ、源満仲は安和2年(969)の安和の変では、密告によって藤原氏の政敵・源高明(醍醐天皇の皇子)の排除に貢献。父・経基譲りの暗い手口を使っています。

おわりに

源経基は「武士の棟梁」の始祖でありながら軍事的才能を発揮する場面は少なく、特に後に源氏が基盤とする関東には悪評しか残せず、『将門記』では小心で狡猾な人物として描かれています。実際に将門を密告しているわけで、悪い意味での中級貴族らしい競争心、上昇志向も目立ちます。

『尊卑分脈』では「天性、弓馬に達し武略に長ず」とか「西八条の池に龍を住まわしむ」と源頼朝や源義家の先祖にふさわしい姿が強調されていますが、あくまで伝説です。実像は平将門、藤原純友の追討に関わり、幸運にも勝者の側に立ったという程度かもしれません。しかし、それが武門で身を立てることにつながり、何代か後には武士の崇拝の対象となりますから歴史の偶然とは分からないものです。『拾遺和歌集』に2首が収められていて、貴族らしい一面も垣間見えます。


【主な参考文献】
  • 『坂東市本将門記』(坂東市立資料館)
  • 下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』(山川出版社)
  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中央公論新社)中公新書
  • 倉本一宏『公家源氏―王権を支えた名族』(中央公論新社)中公新書
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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