「藤原純友」朝廷を震撼させた東西同時挙兵の西の主役…平将門の盟友か、革命を夢見た海賊か?
- 2023/04/11
藤原純友(ふじわらのすみとも、?~941)は京を震撼させた東西同時反乱「承平天慶の乱」における、西の主役(939年 の藤原純友の乱の首謀者)です。
瀬戸内海を舞台に船団を駆使して神出鬼没に攻め、縦横無尽に逃げ、朝廷を翻弄しました。ロマンを求めた海賊の首領、革命を志した時代の風雲児といったイメージが沸き上がる格好良さがあります。しかし、純友の実像は謎に包まれています。なぜ挙兵し、何を目指したのでしょうか?
瀬戸内海を舞台に船団を駆使して神出鬼没に攻め、縦横無尽に逃げ、朝廷を翻弄しました。ロマンを求めた海賊の首領、革命を志した時代の風雲児といったイメージが沸き上がる格好良さがあります。しかし、純友の実像は謎に包まれています。なぜ挙兵し、何を目指したのでしょうか?
不遇の青年期…下級貴族から海賊へ
藤原純友は平安時代中期の武将、貴族、海賊です。9世紀末ごろの生まれで、天慶4年(941)死去。父や祖父の任官時期から推定し、仁和元年(885)前後を中心とした元慶、仁和年間(877~889年)生まれとする説があります。なお、没年を49歳とする『大村家譜』によれば、寛平5年(893)生まれになります。
藤原北家・摂関家に近い血筋
父は大宰少弐・藤原良範。大宰少弐は大宰府(九州の地方統括機関)の次官です。父良範は摂政・太政大臣に上りつめた当時の最高権力者・藤原忠平とは系図上、又従兄弟です。さらにいえば、忠平の父で関白を務めた藤原基経は藤原良房の養子で、もともと純友の祖父・藤原遠経とは兄弟。つまり、良範と忠平は血脈では従兄弟なのです。純友は藤原北家嫡流・摂関家に近い血筋で、貴族として出世する可能性も大いにありました。しかし、祖父・藤原遠経は仁和4年(888)、従四位下で死去。父・藤原良範も寛平6年(894)、大宰少弐に就いて以降の記録がなく、在任中に死去した可能性があります。
純友は父の赴任に従い、少年期を九州で過ごし、祖父や父を早くに亡くし、帰京後は出世の糸口がつかめない状態だったと想像できます。青年期は不遇だったようです。一方、『大村家譜』や『系図纂要』は、純友は伊予の豪族・高橋氏出身で、藤原良範の養子としています。
中年期にようやく伊予掾就任
藤原純友は伊予掾(じょう)でした。掾は守(かみ)、介(すけ)に次ぐ国司の3等官です。『公卿補任』によれば、父・藤原良範の従兄弟・藤原元名(もとな)が承平2年(932)1月、従五位上で伊予守に就いています。そのころ、純友も伊予掾に任官したのでしょう。仁和元年(885)前後の生まれと仮定すると、50歳近く。中年まで出世に恵まれなかったようです。
なお、伊予守は三位、四位の貴族が任命されるのが通例で、藤原元名は伊予介だった可能性もあります。元名は良範の従兄弟ですが、純友と同年代。年の近い親族・純友を連れて伊予に赴任し、海賊対策に協力させる思惑があったのかもしれません。
日振島拠点に海賊活動?
『日本紀略』によれば、藤原純友は承平6年(936)ごろまでに日振(ひぶり)島(愛媛県宇和島市)を拠点に海賊として瀬戸内海を荒らし回っていました。日振島は愛媛県と大分県の間にあり、瀬戸内海の外の島です。潮流の激しい豊後水道、豊予海峡を経ないと瀬戸内海に入れません。逆にいえば、優れた航海技術を持つ者以外は攻めにくく、海賊の拠点に適した孤島なのかもしれません。
『日本紀略』では、承平6年(936)6月、伊予守・紀淑人(きのよしと)の寛大な処置に懐柔され、純友配下の海賊たちが降伏。瀬戸内海の海賊活動が沈静化します。純友は、いつのまにか国司中級幹部、下級貴族から海賊に転身していたのです。
親族・藤原元名の離任後も伊予に残り、現地の無法者たちと結託したのでしょうか。しかし、この根拠は『日本紀略』の記述だけで、承平6年の海賊降伏の記事を掲げる『扶桑略記』には、純友の名がありません。実は純友は、藤原元名とともに帰京し、承平6年(936)3月、海賊取り締まりの命令を受け、再び伊予に向かったのです。
『本朝世紀』に「前伊予掾・藤原純友は承平6年に宣旨を受け、海賊追捕を命じられた」とあります。懐柔された海賊側ではなく、逆に紀淑人配下で海賊鎮静化に功績があったと想像できます。
1年半続いた純友の反乱、神出鬼没の戦い
藤原純友の乱と平将門の乱を合わせて「承平天慶の乱」と呼びます。東西同時に起きた地域紛争で、将門の乱が承平5年(935)の親族間の合戦から始まり、純友も承平6年(936)までには海賊として暴れていたという解釈が含まれます。しかし、純友が承平年間に海賊化していたとする通説には前述の通り反論があり、国家への反乱は両方とも天慶年間のことで、「天慶の乱」と呼称すべきだと説く専門家もいます。
将門の乱は親族間抗争を除き、天慶2年(939)11月の常陸国府襲撃で朝廷への反逆となった時点から天慶3年(940)2月に藤原秀郷らに討ち取られるまで2カ月半ですが、純友の乱は天慶2年(939)12月の蜂起から天慶4年(941)6月の鎮圧まで1年半続きます。しかも京に近い瀬戸内海での反乱で、貴族たちに与えた恐怖はとても大きかったはずです。
『本朝世紀』によれば、天慶2年(939)12月17日、京に純友出陣の情報が届きます。伊予守・紀淑人の制止を振り切り、兵を率いた純友が伊予を飛び出します。12月26日、純友は藤原文元(ふみもと)に備前介・藤原子高(さねたか)を殺害させる事件を起こします。
場所は摂津・須岐駅(兵庫県芦屋市、神戸市東灘区)。純友の乱の出発点です。
『純友追討記』の残虐非道な純友
『純友追討記』は「伊予掾・藤原純友は海賊の首領であり、生来残虐で、礼節・法令を無視し、配下を率いて南海道・山陽道諸国で乱暴を働き、強盗と放火を繰り返していた」と書き出し、藤原純友を極悪非道の悪役としています。さらに乱の発端である摂津・須岐駅の事件について「備前介・藤原子高殺害のため、藤原文元に追跡させ、文元は合戦の末、子高を捕らえて耳、鼻を切り、妻を拉致し、子息を殺害」と続き、純友一党の残虐性を強調しています。
しかし、純友は海賊取り締まりの最前線に立っていたはず。海賊鎮静化に協力した地元勢力と国司の間の板挟みになるか、いざこざに巻き込まれて戦乱に発展したという解釈もあります。
懐柔策・五位叙爵から一転全面対決
天慶3年(940)1月、乱に対応するため、朝廷は小野好古(おののよしふる)を山陽道追捕使に、源経基(みなもとのつねもと)を次官に任命します。その一方でこの時期、東国では「平将門の乱」も起きており、東西同時に対応できないとみたのか、1月30日に藤原純友に従五位下の位階を授けます。藤原文元も備前介の官職を得ます。ところが、2月、将門が敗退すると、朝廷は懐柔策から方針を一転させました。
藤原文元は自身の任官を知らなかったのか、備中で武装蜂起。さらに藤原子高殺害犯として朝廷の追討対象となります。また、こちらも純友派である前山城掾・藤原三辰(みつとし)が同年2月、讃岐で挙兵します。純友と連携してきた地元勢力の相次ぐ反乱。朝廷との全面対決は避けられなくなりました。
8月18日、純友は400艘の船団で讃岐の朝廷軍を襲撃。伊予も抑え、この後も瀬戸内海を駆け回り、朝廷軍と戦います。海賊・純友の快進撃が続きます。
藤原恒利離反、最後は橘遠保に敗退
藤原純友は土佐にも出没するなど瀬戸内海や四国沿岸を縦横無尽に暴れ回ります。朝廷側も反撃し、藤原三辰を撃退。純友派の切り崩しを本格化させ、天慶4年(941)2月、純友の幹部・藤原恒利が朝廷側に寝返ります。ここから純友は追いこまれていきます。4~5月、日振島を退去し九州へ。5月、大宰府合戦で追捕使・小野好古に敗退。6月には、息子・重太丸とともに逃亡先の伊予で警固使・橘遠保に敗れ、捕らえられます。『純友追討記』では獄死、『本朝世紀』では6月20日の合戦で敗れ、その日のうちに斬首となります。
将門との密約はあったのか?
天慶2年(939)11~12月、藤原純友の乱と平将門の乱はほぼ同時期に勃発しましたが、純友と将門の密約は当時から信じられていました。『本朝世紀』や貴族の日記にも純友と将門が示し合わせて兵を挙げたという見方が散見されます。貴族が信じた比叡山共同謀議
後の時代の『将門純友東西軍記』になると、藤原純友と平将門の密約もより具体的なドラマになっています。純友と将門が比叡山に登って京の街を見下ろしながら、「将門は皇孫だから帝王となり、純友は藤原氏だから関白になる」と約束し、東西で蜂起したというのが比叡山共同謀議の逸話です。2人が同時に京にいた時期がある可能性はありますが、密約説は周囲の想像だけのようです。そもそも将門は京に攻め上がる気配をみせませんでした。それでも京の貴族は将門の来襲を恐れ、純友と将門の密約説を信じていたのです。
おわりに
地元勢力と国司の争いはこの時代にいくつかあり、藤原純友もそうした事件に巻き込まれたのかもしれません。国司中級幹部として地元勢力と近い関係にあり、担がれた可能性もあります。しかし、純友の行動には、ある程度やったら矛を収めようとか、譲歩を引き出して降伏しようという中途半端さはありません。野心も戦略もあり、政治への怒りがあり、その改革を目指す志が感じられます。その志は平将門とも通じる部分があります。
【主な参考文献】
- 下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』(山川出版社)
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫
- 海音寺潮五郎『悪人列伝』(文藝春秋)文春文庫
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