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【やさしい歴史用語解説】「旗印」と「馬印」
- 2022/01/28
同じようなものとして「馬印(うまじるし)」もありますね。今回は「旗印」と「馬印」についてお話したいと思います。
平安時代に武士が生まれてから、「旗」は重要な存在でした。戦場で敵味方の識別や所在の標識として、さらに士気を鼓舞するシンボルとして掲げられています。源氏の白旗・平家の赤旗が有名でしょうか。
またバリエーションも豊かになってきます。奥州藤原氏を征討した文治5年(1189)の頃には、佐竹氏が扇で児玉氏は団扇(うちわ)といったふうに、自分の家ならではの旗が考案されました。
中世に入ると、旗の図案だけでなく色彩も色とりどりとなりました。鎌倉時代中期の絵巻物「蒙古襲来絵詞」には、御家人たちのカラフルな旗が踊るように描かれているほど。
いよいよ戦国時代になってくると、旗の主流は「旗指物(はたさしもの)」へと変化していきます。足軽が背負う昇り旗のことですね。戦いが集団戦へ移行したことで、将兵一人一人の識別が困難になったからです。これなら遠目からでも部隊の活躍ぶりが見えたことでしょう。
さて、旗や旗指物にはさまざまなデザインや意匠が施されました。絵柄や家紋・文字など、それぞれの特徴に合った印(しるし)が使われたそうです。こういった旗に描いた意匠を「旗印」と呼びます。
たとえば織田家ですと、信長が好んだという「永楽通宝」の旗印、また斎藤道三ですと彼一代でしか用いなかったという「二頭立浪(にとうたつなみ)」、さらに有名どころでは、武田信玄が孫子の言葉を大書したという「風林火山」などでしょうか。
「旗」と「旗印」は一対のものですし、唯一無二のもの。武将たちの思い入れが深いものだったのでしょう。
次に「馬印」ですが、これは戦場に一つしかありません。なぜなら総大将の所在を示す目印だからです。場合によっては敵を攪乱するために複数掲げられた可能性もありますが、基本的に同じものは二つとしてありませんでした。
味方からよく見えるように長柄の先に付けて立てられ、おおむね総大将がいる本陣に据えられました。味方の兵は馬印が微動だにせず立っていることで、安心して戦えたのかも知れません。ただ大坂夏の陣の際には、倒れたことがない徳川家康の馬印が引き倒されたという逸話も伝わります。
有名な馬印といえば、やはり豊臣秀吉の「金瓢(きんぴょう)」でしょうか。黄金に輝く瓢箪は、いかにも秀吉らしさを醸し出していますね。
また織田信長の場合は「金の唐傘」です。一見して何の変哲もない傘ですが、よく見ると南蛮風の意匠となっています。これも信長を象徴する馬印だと言えるでしょう。
場合によっては「大馬印」と「小馬印」を同時に立てることもあったそうです。本陣をより華やかに演出するための方法だったのかも知れませんね。
江戸時代になると戦いはなくなりますが、馬印は違う使われ方をしていきます。参勤交代の際には行列の先頭に掲げられ、どこの大名家なのかが一目でわかるようになっていました。江戸庶民は「武鑑(ぶかん)」というガイドブックを見ながら、馬印と照らし合わせていたそうです。
また江戸町火消のシンボルでもある纏(まとい)ですが、やはり馬印から進化したものだそうです。
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