【家紋】秀吉の「桐紋」、実は皇室由来? バリエーション豊かな「日本国」のエンブレム
- 2019/10/01
戦国史における「三英傑」といえば誰しも知るところの有名武将たちですが、なかでも異彩を放つのが「豊臣秀吉」です。一兵卒から「天下人」という事実上の国家元首相当の地位にまで上り詰めた人物は、世界史的にも珍しいとされ、実力・智謀・運のすべてを兼ね備えた武将だったといえるでしょう。
晩年の強権的で無謀ともいえる数々の政策への悪印象から後代の評価は分かれるところですが、機知に富んで上下貴賤の別なく細やかな心配りができた人心掌握の達人、「人たらし」としての魅力は誰もが認めるところですね。
今回は、そんな秀吉が使用した家紋として有名な「桐」の紋についてのお話です!
晩年の強権的で無謀ともいえる数々の政策への悪印象から後代の評価は分かれるところですが、機知に富んで上下貴賤の別なく細やかな心配りができた人心掌握の達人、「人たらし」としての魅力は誰もが認めるところですね。
今回は、そんな秀吉が使用した家紋として有名な「桐」の紋についてのお話です!
そもそも秀吉の家紋って?
「豊臣秀吉」という名前そのものはよく知られていますが、その素性は明確にはわかっていません。系図や父母についての記載も史料によって異なり、しかもそれらの文献も後世の江戸時代になって書かれたものが多く、信憑性という点では鵜呑みにできないのが事実でしょう。
つまりは出生からの詳細なプロフィールが残りにくいような一般庶民であり、裏を返せば「一兵卒からの叩き上げ」そのものであることの証左とも考えられますね。
歴史上、彼の名の初出が「木下藤吉郎」であることは有名ですが、そういった出自であったことから秀吉本来の家紋が何であったのかはよく分かっていません。あるいは、家紋という一族のエンブレムそのものがなかったという可能性もありますね。
秀吉といえば「瓢箪」!あれは家紋ではない?
さて、秀吉のシンボルマークといえば「瓢箪」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。俗に「千成瓢箪」などと呼ばれ、たくさんの金色の瓢箪を束ねたようなものがよく知られています。しかし、これは正確には家紋ではなく、部隊において指揮官の所在を示す「馬印」という立体物の識別標のことを指しています。秀吉が信長麾下の部将であったころ、美濃・稲葉山城の斎藤龍興を攻めた際に、攻撃の合図として長柄物の先に瓢箪をぶら下げて味方に合図を送ったことに由来していると伝わっています。
ところが、この「千成」のデザインも正確ではないとされ、竿先に金色の瓢箪ひとつを逆さに差し、その下に紙垂や暖簾のような飾りを取り付けたものが江戸時代の『御馬印』という絵図に残っており、こちらが正式なものだったと考えられています。
元来は皇室が使用、高貴な桐の紋
瓢箪は家紋ではありませんでしたが、もうひとつ秀吉、もとい豊臣家を象徴するマークとして知られるのが「桐」の紋です。秀吉は苗字を「木下」から「羽柴」、やがて権威付けの関係もあり氏を「平」、そして関白叙任の際には仙台関白・近衛前久の猶子となることで「藤原」と変更しています。
ここで注意しなくてはならないのが「苗字」と「氏」との違いで、これは両立されるものであったということです。
よく知られる「豊臣」という新しい名は「氏」であり、羽柴から豊臣へと改姓したのではなく、羽柴という苗字のまま、「藤原」から「豊臣」へと氏の名を変えたということになります。ちなみに、豊臣氏の「姓(かばね)」は「朝臣(あそん・あそみ)」で、皇族以外では最高位の姓とされています。
少しややこしいお話ですが、時の正親町天皇から豊臣の氏を下賜され、秀吉は「桐の紋」を用いるようになります。
この桐紋は菊紋と並ぶ皇室由来のエンブレムであり、後醍醐天皇が足利尊氏にこの紋を許したのが最初とされています。つまり、皇室から武家への下賜という形で桐紋使用を認める伝統があり、秀吉のかつての主君であった織田信長も桐の紋を使用していたことが知られています。
秀吉は天下人として君臨するにあたって、この「桐」と「菊」の無断での紋章使用を禁止する法令を発布しています。天正19年(1591)に桐と菊の紋を停止するよう最初の触れが出され、文禄4年(1595)の大坂城中壁書きでは「秀吉からの拝領以外で」の紋章使用禁止が明示されています。
これらのことからも、秀吉が自政権の権威付けに桐紋等の使用統制を利用したことが窺え、独占的な意匠権を掌握していったともいえるでしょう。
増えていく桐の紋、いつしかポピュラーに
とはいえ、秀吉の「許可」さえあれば桐紋を使用することができ、意外と多くの武将がそれを許されていることがわかっています。そのため、桐の紋のバリエーションは増加していき、最終的に15種にものぼったとされています。秀吉自身は伝統的な桐紋をアレンジした「太閤桐」というオリジナルの紋を使用するようになり、これが最終的な秀吉の「家紋」と呼べるものかもしれませんね。
おわりに
天下人たる秀吉によって用いられ、専用のエンブレムとなったかのような印象の桐紋ですが、その伝統は現代にまで脈々と受け継がれています。例えば現行500円硬貨の裏側のデザインや、官邸の備品などに用いられており、皇室の「菊花紋章」につぐ日本国の紋、という位置づけがなされています。
そういった意味では、秀吉が願ったであろう天下の紋ということがいえるかもしれませんね。
【参考文献】
- 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
- 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「花のない桐紋をめぐって」『京都府埋蔵文化財情報 第125号』 小山雅人 2015 公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター
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