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【薬師寺の秘密】なぜ塔はふたつあるのか?

平成薬師寺の東塔は、国宝にも指定されており、日本史の教科書や、資料集にもほぼ必ず載っている有名な塔です。実物や写真を一度は見たことがあるのではないでしょうか。

しかし薬師寺には、東塔と西塔といったふたつの塔があります。日本最古の塔である奈良県斑鳩町の法隆寺では、塔は五重塔のひとつのみです。また、他の地域では塔がひとつしか無いお寺やふたつあるお寺もあります。

なぜ塔の数に違いがあるのでしょうか?平成薬師寺の歴史を見ることで、その謎を考えていきましょう!

1、平成薬師寺東塔【写真1】とは?

平成薬師寺東塔(以下東塔と略)は薬師寺(本薬師寺)が藤原京から平成京へ移動してから、現代にまで残っている、非常に貴重な建物です。

平成21年(2009)に保存修理が行われており、その時の調査で以下のようなことが分かりました。

①造られた当時から現在までの基壇外装(基壇の飾りつけと基壇の崩壊を防止するもの)と基壇の大きさが判明!

②造られた当時の版築(突き固められた盛り土)がほぼ完ぺきな状態で残っている!

③ 西塔との違いが明らかに!→使われている石材の違い(東塔は凝灰岩で西塔は花崗岩)

【写真1】薬師寺東塔

2、平成薬師寺西塔【写真2】とは?

平成薬師寺西塔とは東塔と同じく、遷都の時に平城京に造られた建物です。しかし、享禄元年(1528)の戦火によって焼失し、昭和56年(1981)に再建されました。

奈良文化財研究所によって調査が行われ、1987年には調査報告書が刊行されました。調査の成果としては以下のことが判明しました。

①造られた当時から現在までの基壇外装(基壇の飾りつけと基壇の崩壊を防止するもの)と基壇の大きさ

②用いられた版築の技法

③建物の形式は東塔とほぼ同じであること

【写真2】薬師寺西塔

3、薬師寺がつくられた時代に何があったのか?

平成薬師寺がつくられた時代に何があったのか?考えるキーポイントは、「当時の塔が持つ役割」であり、塔の役割を知るヒントに「塔心礎(とうしんそ)」があります。

▶︎ 塔心礎と当時の歴史背景
塔心礎とは、塔を真っ直ぐに貫いている柱である「心柱(しんばしら)」を支える土台石です。この土台石には、仏さまのご遺骨である「舎利(しゃり)」を納める役割があるものもあります。

東塔の塔心礎は平べったい形をしており、塔心礎には仏舎利が納められていなかったことが分かります。

対して西塔の塔心礎には舎利を納める穴である「舎利孔(しゃりあな)」があることから、西塔は舎利を納める役割があったことが分かります。

また、薬師寺が建てられた時代である奈良時代では、国を守るはたらきを持つ「金光明経」を大切にしていた時代でした。

天平13 年(741)に発布された、有名な国分寺・国分尼寺建立の詔では、国分寺に七重塔の建立と金光明最勝王経という経典を納めることが求められており、この詔からも、経典が特に大切な位置にあったのかが分かります。

古代史研究の一人者である森郁夫氏は、塔心礎の違いと、当時の歴史的な背景に注目し、「東塔には仏舎利を納め、西塔には法舎利(経典)を納めていた可能性」を述べています。

4、まとめ

以上のように薬師寺の東塔と西塔の主な情報と、塔心礎や当時のお触れから薬師寺の持つ歴史的背景を説明しました。

現段階では薬師寺の塔には、仏舎利と法舎利を納めるふたつの役割があったのではないかと考えられていますが、不明な部分も多く、まだはっきりとした答えは分かっていません。

謎の多い薬師寺…皆さんも是非見に行ってください。

● 参照・参考資料
・森 郁夫 1991「わが国古代寺院の伽藍配置」『学叢』13 号 京都国立博物館
・奈良文化財研究所2015『第4回薬師寺発掘調査現地説明会 パンフレット』
・奈良文化財研究所1976『薬師寺西塔発掘調査現地説明会 パンフレット』
・奈良国立文化財研究所 1987『奈良国立文化財研究所学報45:薬師寺発掘調査報告』

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  この記事を書いた人
まっさん さん
お寺が好きなどこかの大学院生です。 考古学を専攻しており、古代日本史が大好きです! 将来の夢は文化財専門職

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