※ この記事はユーザー投稿です

相沢事件 真面目な人ほど陥りやすいワナ

昭和10年(1935)8月12日の午前9時45分、市谷にあった陸軍省の軍務局長室に歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐が入ってきました。陸軍省に陸軍将校である相沢中佐がいても不思議ではありませんので、途中とがめる人もいなかったのです。

その時、軍務局長であった永田鉄山少将は部下の新見大佐と打ち合わせをしていました。そして入ってきた相沢中佐は腰に付けていた軍刀を抜刀し、永田少将に袈裟懸けに切りつけました。

驚いた新見大佐は永田少将をかばおうとして逆に相沢中佐に切られ、重傷を負います。そして永田少将に致命傷を与えていないことを察した相沢中佐は、さらに永田少将に刺突攻撃を加えて絶命させます。軍務局長室は血の海となりました。

これが「相沢事件」と呼ばれる事件です。

何故、相沢中佐は永田少将を殺したのか?

簡略に述べますと、相沢中佐は根っからの軍人であり、陸軍を悪い方向に導こうとしていた永田少将を「悪の元凶」と思い込んでいたからです。事件後、相沢中佐は「永田に天誅を加えた」と言っていることでも、それが分かります。

戦前の日本には陸軍省と海軍省という役所があり、その名の通り、それぞれ陸軍、海軍を統括しており、内閣に陸軍大臣、海軍大臣を出してもいました。

現在の考え方ですと、陸軍大臣も海軍大臣も総理大臣の管轄下に有る訳ですから総理大臣の命令には従わなければなりません。しかし、当時は「大日本帝国憲法」の時代であり、それには「陸軍と海軍は天皇陛下の直属とする」と明記されていたのです。ですので、陸軍と海軍は天皇陛下のご命令以外は聞く必要はない、と解釈されていました。

つまり総理大臣にも陸軍、海軍に命令をする権利はないのです。従って天皇陛下以外の人物が陸軍、海軍のやり方に口だしをすると、「統帥権干犯である」と言われたのです。

統帥権とは「統率し命令する権利」であり、干犯(かんぱん)とは「干渉して他の権利をおかすこと」です。つまり「かしこくも天皇陛下だけがお持ちの権利を犯した」ということになり、「万死に値する行為」だとされていたのです。そして、当時、陸軍内部には「統制派」と「皇道派」という2つの派閥が勢力争いをしており、永田少将は統制派のリーダーと目されていたのです。

当時の陸軍大臣、林銑十郎大将は皇道派のリーダーである真崎大将を軍の要職である教育総監から更迭します。これに怒った真崎大将は、いわゆる「怪文書」と呼ばれる文書を作成し、陸軍内にばらまきます。そして、その怪文書を読んだ相沢中佐は、全ての元凶は統制派のリーダーである永田鉄山であると信じこんでしまったのです。

真崎大将を更迭したのは明らかに統制派の策略であり統帥権干犯である。このままでは陸軍は駄目になる。ならば元凶を切るしかない、という結論になった訳です。

※永田鉄山少将(wikipediaより)
※永田鉄山少将(wikipediaより)

相沢三郎中佐の人物像

相沢三郎中佐は旧仙台藩士である相沢兵之助の長男として生まれました。そして仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校と進み陸軍に入隊します。

常日頃から父親に「一意専心ご奉公を心がけ、常に一死以って君国に報じる覚悟がなければならない」と教えられ、質素な生活を心がけ上官には敬意を持って接し、部下には慈愛を持って接した人物でした。日常生活でも他人に対しては常に丁重、慇懃に振る舞い、毎朝、皇居方面に向かって遥拝を欠かさず行っていました。

よく「古武士の風格がある」と言われたそうです。実際、剣道四段の達人であり、陸軍戸山学校で剣術教官を務めたほどの腕前だったのです。相沢中佐の中で天皇陛下は絶対の存在であり、天皇陛下にわが身を捧げるのが自分の役目であるという固い信念を持っていました。つまり軍人というより武士という方が、より適切な表現である人物だったのです。

武士は「死を恐れるな。主君のためならば喜んでわが身を捧げよ」というのが信条ですが、実際には、いざとなったら逃げ出してしまう人物も多かったと思います。ですので、相沢中佐のような人物は少数派だったとは思います。それでも昭和10年は西暦にすると1935年です。つまり87年前の日本には、まだこんな人物がいた、という訳です。人間の感覚では87年は長いですが、歴史的尺度で考えると「つい、この間のこと」と言える年月です。

別の角度から見れば、相沢中佐ほど頼もしい人は滅多にいないでしょう。部下にとっても上官にとっても「頼りになる人物」として映っていたと思います。また、常に謙虚な態度で接してくれ、決して嘘など付かず、有言実行で膂力もあり、実際の戦闘能力も高く、いざとなれば自分の身を犠牲にしてでも守るべきものを守ってくれる、というのは女性にとっても「頼りがいのある人」と映ったのではないでしょうか。

逆に、相沢中佐を父親に持ってしまったら息子は大変だったでしょう。これほど怖い父親は滅多にいないでしょうから。現実の相沢中佐は娘さんが一人いただけでしたが。つまり総合的に言うと相沢中佐は精神面でも肉体面でも「凄く強い人物」だったのです。

相沢中佐の世界と現実の狭間

しかし、相沢中佐には大きな欠点があったと言わざるを得ません。それは「自分の価値観は絶対に正しい」と信じ込み過ぎていたことです。

ただ、父親から「一意専心ご奉公を心がけ、常に一死以って君国に報じる覚悟がなければならない」と常日頃、言い聞かせられていれば、子供であった相沢三郎君は従わざるを得ません。また、軍関係の学校に進み、軍隊に入った相沢三郎は「軍隊社会」というものしか経験がありません。つまり「自分の価値観に疑いを持つ機会」が全く無かったのです。

ですので、真崎大将のばらまいた「自分に都合のいいこと」だけを書いた怪文書を頭から信じ込んでしまったのです。実際には真崎大将を教育総監から更迭したのは林銑十郎陸軍大臣の独断であり、永田少将は全く関係していません。

永田少将は「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われるほど、優秀で先進的な人物で「軍人は軍隊の中にだけ、いてはいけない。一般社会の人達とも積極的に交流を持ち見聞を広めるべきだ」と主張し経済界の人達と「朝飯会」を開いたりして陸軍の意識改革に取り組んでいた人物でした。

また、資源の無い日本が資源を得るのに戦争をする、ということには反対だったようで、友好的に貿易をすれば済むことである、と考えていたようです。

もし永田少将が生きていれば陸軍の暴走を防いでくれたかもしれないのです。そうなれば日本は太平洋戦争を回避できたかもしれないのです。もちろん歴史に「タラレバ」は禁物なのですが。

先に「統制派のリーダー格」と表現しましたが、そもそも当時「統制派」と言う名前の派閥は存在しませんでした。「統制派」「皇道派」というのは戦後になって付けられた名称です。現実には「統制派」と呼ばれる人達は陸軍大学を出た、いわば「エリートの軍人」であり「皇道派」と呼ばれる人達は「そうでない人達」という区分けがあったに過ぎません。そしてエリート組の中でも永田少将は飛びぬけて優秀だったので「そうでない人達」から中心的存在と思われていたにすぎないのです。

エリート組の中でも「とびぬけて優秀」となると、そうでない人達にとっては妬ましい存在と映ります。ですので、永田少将を斬殺した相沢中佐は陸軍省の他の軍人達から賞賛されもしたのです。しかし、その賞賛は相沢中佐が目的としたこととは違う意味の賞賛だったのです。

相沢中佐は「これで陸軍は正しい方向に向かう」と思ったかもしれません。ですが、実際には、この事件をきかっけにして陸軍は暴走を始めてしまうのです。そして2.2.6事件が起こります。

2.2.6事件を起こした青年将校達は「相沢中佐に続け!」をスローガンとしましたが、その後の歴史を知ったら、相沢中佐はどう思うでしょうか?本当に「あれでよかった」と思えるのでしょうか?

昭和11年7月3日午前5時、東京衛戍刑務所で銃殺刑となった相沢中佐は同年の2月26日に起きた2.2.6事件の時は存命していましたが、事件のことは知らされなかったようです。

軍隊というのは 戦争をするのが仕事、と言って良い物です。根っからの軍人であった相沢中佐はもしかしたら「それでも、俺は正しかった」というかも知れません。人物像としては素晴らしい物があった相沢中佐ですが、もし「それでも俺は正しかった」というなら、少なくとも昭和天皇は2.2.6事件が起きた時に憤激され、「賊軍を征伐せよ!」と命じられた、という事実だけは知っておいて頂きたいと思います。

しょせん神ならぬ人間の知見、識見には限界があるのです。決して崇拝者ではない私ですが、芥川龍之介が侏儒の言葉に書き残した以下の一節だけは「正しい」と思っています。

「遺伝、境遇、偶然、我々の運命を司るものは、畢竟、この三者である。自ら喜ぶ者は喜んでも良い。しかし他を云々するのは僭越である」

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。