※ この記事はユーザー投稿です

【奈良県の悲劇の古代寺院】山田寺をご紹介

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある寺院です。現在の姿こそただの広場ですが、造られた当時は広大かつ、豪華なお寺でした。しかし、それと同時に、山田寺はは飛鳥時代で悲劇的な事件の舞台にもなりました。

今回は、そんな奥の深い歴史を持つ山田寺を紹介していきたいと思います。

山田寺は誰に建てられた?

山田寺は、7世紀半ばごろの飛鳥時代に、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)によって建てられました。

蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子の家臣であると同時に、中大兄皇子の奥さんの父親でもありました。
また、645年に起きた「乙巳の変」では中大兄皇子や中臣鎌足と協力し、蘇我蝦夷・蘇我入鹿を滅亡に追い込む働きを見せていました。

山田寺ってどんなお寺? ~発掘調査を通じて~

山田寺は昭和51年から昭和58年まで4回発掘調査が行われており、その壮大で豪華な全貌が明らかにされています。特に大きい発見は以下の2つです。

①回廊が倒壊したまま発見
今から1200年前以上の回廊(お寺の通路)が、屋根も含めてそのまま発見されました。

②黄金色に輝く塼仏(せんぶつ)
お寺の壁一面に飾っていたと考えられる、金色の塼仏(仏様が描かれたタイル)が大量に発見されました。

※山田寺の跡地その1。柱を支えていた礎石が残っています。

※山田寺の跡地その2。左に当時の山田寺の伽藍を示す解説パネルがあります。

山田寺で起こった悲劇

では、そんな山田寺で起こった悲劇はどのようなものでしょうか?

それは山田寺が建てられて、塔や講堂が出来ていなかった8年後にその悲劇が起こりました。蘇我倉山田石川麻呂は、長く仕えていた中大兄皇子にクーデターを起こそうとしている疑いをかけられたのです。

これを受けて山田寺に帰宅した石川麻呂は、家族の「徹底抗戦すべきだ!」という意見に反対し、「最期まで主君に逆らうことなく恨むこともないように」という言葉を遺して、山田寺で家族と一緒に自決しました。しかし、後から冤罪であることが分かり、中大兄皇子をたいへん悲しませました。

悲劇的な最期を遂げた蘇我倉山田石川麻呂の一族を弔うべく、天智2年(633年)には天皇として即位した、中大兄皇子によって塔の工事が行われました。また、天武天皇の時代では、石川麻呂の孫娘である鸕野皇女(後の持統天皇)により、塔の工事や仏像の鋳造が行われています。

おわりに

山田寺の歴史やどんなお寺なのかを説明してきました。一見何の変哲のない広場に見えても、1200年前では壮大で豪華、かつ悲劇的な歴史の舞台でした。奈良県桜井市を訪れた際は、蘇我石川麻呂を偲んで、山田寺に来てみてください。

● 参考文献
坪井清足監修1985『発掘が語る日本史』近畿編 紀行社
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所 2002 『山田寺発掘調査報告』奈良文化財研究所学報63

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
まっさん さん
お寺が好きなどこかの大学院生です。 考古学を専攻しており、古代日本史が大好きです! 将来の夢は文化財専門職

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。