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2.2.6事件をあらためて考察する 何が彼らを動かしたのか?

2.2.6事件というものがあったことをご存じの方は多いと思います。昭和11年に陸軍の「青年将校」と呼ばれる人達(少尉~大尉)が自分達の軍隊を率いて総理大臣、大蔵大臣などの要人を襲撃した事件です。

この事件で高橋是清(大蔵大臣)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監・陸軍大将)の3人が殺され、岡田啓介(総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)は運良く殺されずにすみましたが、本当に紙一重のところでした。

岡田首相を襲ったグループは、岡田首相の義弟を岡田首相と勘違いして殺したので助かり、鈴木侍従長は数発の弾丸を受け、とどめを刺される寸前に奥さんに懇願され、とどめをささずに引き揚げてくれたので助かったのです。

鈴木侍従長を襲撃したのは安藤輝三大尉の率いるグループでしたが、実は安藤大尉と鈴木侍従長は事前に面識があり、安藤大尉は鈴木侍従長に尊敬の念を抱いていたことが分かっています。また、安藤大尉は最後まで決起に反対しており周りから説得され、やむなく参加したという経緯があります。

その安藤大尉が鈴木侍従長の襲撃係を引き受けたのには訳があったと考えざるを得ません。つまり最初から「少し傷を負わせるだけで止めておこう」と安藤大尉は考えていたと思われるのです。

後に太平洋戦争の幕引きを引き受けることになる鈴木貫太郎内閣で首相を務めた鈴木侍従長は死ぬまで安藤大尉に感謝していたそうです。つまり、安藤大尉は鈴木侍従長を助けるために決起に参加したのかも知れません。

※安藤輝三大尉(wikipediaより)
※安藤輝三大尉(wikipediaより)
※鈴木貫太郎侍従長(wikipediaより)
※鈴木貫太郎侍従長(wikipediaより)

2.2.6事件がもたらした結果

2.2.6事件は陸軍内部における派閥争いなどが絡み合い、決起に至るまでの過程、背景が複雑多彩であることから、これまでにも色々な考察が行われてきました。松本清張氏の大著、「昭和史発掘」では2.2.6事件に全9巻のうち、半分以上にあたる5巻をあてている位です。

2.2.6事件以降、政治家は「陸軍に逆らうと殺されかねない」という恐怖を感じ、陸軍のやり方に異を唱えることが出来なくなってしまい、結果的に日本は太平洋戦争へと突入していきます。つまり、この事件は太平洋戦争へ突入していく、きっかけを作り出したのです。

戦後に行われた極東軍事裁判では、2.2.6事件の後始末をしたものの、結果的に陸軍の言いなりになってしまった広田弘毅総理大臣を東条英機らと同じくA級戦犯として絞首刑に処しています。

※広田弘毅首相(wikipediaより)
※広田弘毅首相(wikipediaより)

しかし、当時の大日本帝国憲法では「陸軍、海軍は天皇陛下の直属である」と明記されており、この文言を盾に陸軍は「天皇陛下のご命令以外は聞く必要はない」という姿勢をとり、総理大臣であっても陸軍に命令することは出来ませんでした。まして、2.2.6事件で実際に殺された政治家がいる以上、その恐怖感は凄まじいものがあったでしょう。

2.2.6事件を起こした青年将校は全員、銃殺刑にされましたが、まだ陸軍内部には「いつ、同じようなことをしでかすか分からない連中」が沢山、いたのです。

当時の文官の出世コースである「一高 → 東大法学部 → 高等文官試験合格 → 大蔵省」という道を歩んできた広田弘毅氏は悲運の人、としかいいようがありません。日本国民の間でも広田総理は戦争を止めようとしていた人物、という認識が強く、全国から数十万の減刑を求める署名が集まったくらいです。

しかし、極東軍事裁判は11人の裁判官の多数決で判決が決まる仕組みで、広田氏の死刑判決は6:5という1票差で可決されます。極東軍事裁判における、唯一の文官に対する死刑判決でした。そういった意味では広田弘毅氏も2.2.6事件の被害者の一人と言って良いのではないでしょうか。

なぜ、彼らは決起したのか?

2.2.6事件についての色々な考察や文献を読んでいると様々な事情や背景があり、それはそれで興味深いのですが、最も肝心な点が今一つ、はっきりとしません、それは「何故、彼らは決起したのか?」という理由です。

よく言われる理由に「北一輝の思想の影響を受けたため」というのがあります。北一輝は「日本改造法案大綱」という論文を発表した思想家で、2.2.6事件では「影の首謀者」とも言われます。

彼の言わんとすることは要するに「君側の奸(天皇陛下の周辺にいる人々の中の悪者)が天皇陛下の意向を無視して権力を私物化している結果、日本は弱体化している。だから君側の奸を取り除き天皇陛下の親政にすべきだ」というものです。

※北一輝(wikipediaより)
※北一輝(wikipediaより)

この思想は北一輝の弟子であり、元軍人である西田税によって、あちこちの青年将校グループに広げられ、受け入れられました。メディアとしては新聞、雑誌、ラジオしかなかった時代、まして軍隊という閉鎖的な場所では情報源はほとんど無く、高等教育を受けている訳でもない少尉~大尉達には「分かりやすく受け入れやすい考え方」である北一輝の論文は、いとも簡単に浸透していったようです。

しかし実行したら「失敗はもとより死、成功もまた死」ということが分かっていながら、思想だけで人は動くものでしょうか?それはちょっと受け入れがたいものを感じます。

相沢事件の相沢中佐のように一人で実行したのであれば、まだ受け入れられるのですが、2.2.6事件は沢山の将校と兵隊が参加しており、それらの沢山の人を「死を覚悟してまで」動かすものは理性ではなく感情であると思うからです。

つまり「何等かの感情」があり、それが彼らを決起させたのではないかと思えるのです。その感情とは一体、なんだったのでしょうか? 

昭和恐慌の発生

2.2.6事件について書かれた書籍は、それこそ山のようにあり、それらを全て読破するのは不可能と思えるくらいです。それでも何冊か読んでみましたが答えは得られませんでした。

しかし「えっ!」という所に答えがありました。なんとWikipediaに「その感情は何か」を示唆する内容が書かれていたのです。そして、それは私が想像していたものと、ほぼ同じでした。どなたが書いたのかは存じませんが、Wikipediaの記事を書かれた方に尊敬の念を表しておきたいと思います。

2.2.6事件の起こる昭和11年を遡ること7年前、昭和4年にアメリカのウォール街で株の大暴落が起こりました。これに端を発し世界中に経済恐慌が発生します。いわゆる「昭和恐慌」です。日本にも、その影響は及びましたが、日本における昭和恐慌は他国よりも遥かに酷い影響を日本経済に与えました。

それは以下の理由によります。
 1、恐慌の起こる6年前に関東大震災が有り、まだ復興の途上にあったこと。
 2、恐慌の起こる直前に金本位制に移行したこと。

上記2を補足説明しますと金本位制に移行する、ということは日本円と外貨との交換レートを固定化すること、及び金の輸出入を解禁し自由化することを意味します。

欧米各国は第一次世界大戦時に交換レートが変動制であり、金の輸出入を禁止する管理通貨制に一次的に変更していたのを徐々に金本位制に戻しつつありました。ですので日本も金本位制に戻すべくタイミングを図っていたのです。

そして浜口雄幸内閣の井上準之助大蔵大臣が金本位制に戻すことを実行。設定された為替レートは100円=49.85ドルで、実勢相場の100円=46.5ドル前後より円を高めに設定したものでした。

これは米国を始めとする諸外国から見ると「高すぎるレート」であり、諸外国は日本から輸入しにくくなりました。そして日本が金本位制に戻した直後、という最悪のタイミングでウォール街の大暴落が発生し、恐慌となります。もはや、諸外国は日本から何かを輸入できる状態ではなくなってしまったのです。

当時の日本は生糸と綿の輸出で経済全体が支えられていたのですが、この輸出が完全にストップしてしまいました。このために多くの大手、中小の会社が倒産してしまい街には失業者が溢れかえったのです。

一方、大手銀行は融資先が無くなり、固定レートで入手しやすくなったドルを買い、それで外国債券を買う、ということを始めました。しかし井上大蔵大臣は大変な批判にさらされながらも、金本位制を堅持し続けたのです。

この状況を見た投機筋は「金本位制は、いずれ撤回される」と読み、一斉にドル買いに走りました。為替レートが実勢相場に戻れば大きな差益が得られるからです。

手持ちの円を国立銀行で金に変え、その金を使って購入したドルを、金本位制撤回後の実勢レートで円に交換すると、最初の手持ちの円より多くなる訳ですが、その結果、円の価値の裏付けである国立銀行の保有する金が、物凄い勢いで海外に流出してしまいました。

これにより、円の実勢相場は急激に下落し、もはや100円=49.85ドルというレートで輸入しようという国は皆無になってしまったのです。完全に負のスパイラルに陥ってしまったと言えるでしょう。

「手持ちの円を国立銀行で金に変え」という部分に違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。金本位制とは国が保有している金を自国通貨の価値の裏付けとする、という制度です。ですので、金本位制の体制下で発行された紙幣は「兌換紙幣」といって国立銀行に持っていけば券面金額に相当する金(現実には金貨)に交換してくれたのです。現在の日本は管理通貨制ですので、紙幣を銀行に持って行っても金には変えてくれません。

この状況を救ったのは既に政界を引退していた高橋是清氏でした。

※高橋是清(wikipediaより)
※高橋是清(wikipediaより)

時の首相である田中義一氏に乞われ、80歳にして6度目の大蔵大臣に就任した高橋是清氏はすぐに管理通貨制に戻し、金の輸出入を禁止にしました。おかげで為替レートは実勢相場に戻り国立銀行の金流出も止まり状況は沈静化し輸出も再開されていったのです。

また、銀行の取付騒ぎを抑えるために「片面だけ印刷した200円札」を作らせ、それで作った札束を大量に用意させ銀行の窓口に置かせました。その札束を見た人達は「この銀行は大丈夫だ」と考え、取り付け騒ぎも沈静化したのです。

相当に乱暴なやり方ですが、それくらいやらないと、とても乗り切れない状況だったのでしょう。2.2.6事件で青年将校達が「君側の奸」と考え、殺害した高橋是清大蔵大臣は実は日本経済を危機から救った人だったのです。

その一方、読みが当たった投機筋は莫大な利益を手にします。その「投機筋」こそ「君側の奸」なのですが、青年将校達には、それは分からないことでした。しかし、この「投機筋」もいずれ、制裁を受ける事になります。

農村の悲劇

しかし都市部は「まだ良い方」だったのです。最も大きな打撃を受けたのは農村でした。

昭和恐慌が波及した昭和5年は稀に見る米の大豊作の年でした。本来なら喜ぶべきことですが、恐慌による物価下落で米の売値は通常の年の1/10以下で逆に豊作飢饉と呼ばれる異常事態が発生しました。

当時の農家の大部分は小作農で地主から土地を借りていたのですが、その地代が払えなくなってしまいます。当然ながら税金も払えない状態となり、税金の滞納が続出。しかし当時の役人は滞納を許さず、平気で差し押さえを行なって支払いを迫りました。その結果、自分の娘を女衒と呼ばれる「人買い」に売らざるを得なくなる農家が続出したのです。

一般的に農家は「子だくさん」でした。なぜなら子供は労働力でもあったからです。子だくさんであれば、当然女の子も何人かはいます。女衒は農家から娘を買い、売春婦として売春宿に売ることを生業としていたのです。この状況を「農家の息子」の立場に立って想像してみて下さい。自分の姉や妹が僅かな金のために売られていくのを目の前で見ていなければならないのです。

それでも昭和5年は米だけは沢山あったので食いつなぐことが出来ましたが、翌昭和6年は東北、北海道は冷害に見舞われ大凶作となります。もはや農村から娘は完全にいなくなり、残された男の子も満足に食べることが出来ず「欠食児童」と呼ばれる子供達ばかりとなっていきます。

不運なことに昭和8年には「昭和三陸津波」と呼ばれる、私達が知っている「東北大震災」と同等クラスの地震が発生し、東北地方の太平洋沿岸地域は大津波に襲われ、多くの死者と甚大な被害を出します。そして翌、昭和9年は記録的な大凶作となり、もはや農業では食っていけない、という状況にまで追い込まれます。

農作物の価格が、やっと恐慌前に戻るのは昭和11年頃からです。つまり昭和5~10年までの6年間は東北地方の農家にとって未曾有の危機的状況が続いたのです。そして、この時期に兵役年齢に達している20歳以上の農家の息子は、みな志願して軍隊に入るしか生きる道がなかったのです。つまり陸軍の青年将校の下にいた兵隊の多くは、東北地方の農家出身の子弟だったのです。

日本の軍隊では新兵が入ると下士官(少尉~大尉)が入隊面接というものをしていました。要は、どういう人物かを確かめるためのものです。そして入隊面接で担当下士官が「家族は?」と聞くと黙り込んでしまう兵隊や泣き出してしまう兵隊が数多くいました。みな、自分の姉や妹が僅かな金で売られていくのを黙ってみているしかない経験をしていたのです。

陸軍大学卒業のエリート層の軍人は新兵などの兵隊と直接、話す機会はほとんどありませんが、下士官は兵隊と毎日、一緒にいるので東北地方の農家の悲惨な状況を知ることが出来たのです。

この時期に戦後、文芸評論家兼作家兼美食家として活躍した丸谷才一氏も兵役についており、自分の経験談をエッセイに書き残しています。

「或る日、夕食の味噌汁に深海魚と思われる奇妙な魚が入っていた。私は気味が悪くて、とても口にできなかったが、他の兵隊達は『わー!魚だ!』と言って喜んで食べておりショックを受けた」

昭和5年から昭和10年までの6年間、食べる物に事欠いた、農家の子弟にとって「魚」は大変なごちそうだったのです。例え、それが奇妙な形の深海魚であっても。

下士官と兵隊の怒り

毎日、兵隊と一緒にいる下士官は兵隊達の話を聞き、当然のごとく理不尽な世の中の仕組みに怒りを覚えたでしょう。小林多喜二が「不在地主」という小説で小作農家の苦しさを描いていますが、当時の農家は本当に搾取され尽くされていたのです。

しかし、その怒りの矛先はどこに向ければ良いのでしょうか?まさか天皇陛下に向ける訳には行きません。そこへ北一輝の「日本改造法案大綱」が流布されてきます。そして「君側の奸」が元凶だ、となれば、そこへ怒りの矛先を向けることができます。また、兵隊達も自分達の悲しみや怒りの矛先を向ける相手が分かれば、襲い掛かるでしょう。

反乱軍将校と兵隊(wikipediaより)
反乱軍将校と兵隊(wikipediaより)

こうして2.2.6事件が起きた、と考えれば、やっと納得がいくのです。つまるところ、昭和恐慌が直接的な原因であり、当時の社会的格差が地盤としての役割を果たしてしまったのです。戦前という時代は社会的格差が現在より遥かに著しい時代だったのです。

2.2.6事件が起こり、日本は太平洋戦争に突入して敗戦します。そして一時的に日本を支配したGHQにより農地解放、財閥解体が行われ、不在地主や投機筋は既得権益を全てはく奪されます。

大変に皮肉なことですが、農家も含めた日本の一般庶民を苦しめていた元凶は日本が負けたことにより排除されたのです。確かに強権を持ってせねば、こういった改革はできなかったでしょう。敗戦という経験が日本にもたらしたものは、物凄く大きいと言わざるを得ません。

よく「勝つことよりも負けることによって得られる物の方が大きい」と言いますが、これは嘘ではないようです。人は誰でも失敗することで経験を得て成長していきます。逆に言うと失敗をした経験の無い人などおらず、失敗を糧として、そこから学ぶことが重要だ、とも言えそうです。

日本という国は、2.2.6事件をきっかけにして戦争に突入し、敗戦という失敗経験を得たのです。その経験を生かすも殺すも、今を生きる人達の学びにかかっていると言っても過言ではなさそうです。学ぶには「まず、それを知る」ことが必要です。歴史を語る意味は、そこにある、と考えても良いのでしょう。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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