徳川幕府の軍艦「咸臨丸」の太平洋横断…実はグダグダだった!?

『万延元年遣米使節図録』に描かれた咸臨丸(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『万延元年遣米使節図録』に描かれた咸臨丸(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 幕府海軍が保有していた軍艦で、艦長の勝海舟の指揮の元で、日本人の操船で初めて太平洋を横断した船として知られる咸臨丸(かんりんまる)。華々しい成果が伝えられますが、内実はそうでも無かったようです。

三隻の姉妹艦、咸臨丸に太平洋横断のチャンス到来

 咸臨丸は安政元年(1854)、日本がオランダに発注した同じ設計の三隻の軍艦の一隻で、咸臨丸(オランダ名はヤーパン号)と朝陽丸・電流丸は姉妹艦です。咸臨丸と朝陽丸は幕府の、電流丸は海軍に力を入れていた佐賀藩の発注です。

 大きさはヤーパン号が長崎港に到着した時、オランダ側が提出した報告書と長崎奉行の検問史料によると、「船之大サ六百弐拾五トン」だそうです。

 おりしも日米修好通商条約批准書交換のため、日本の外交使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号で米国へ行くことになります。この船旅にアメリカ西海岸まで咸臨丸を随伴させれば日本の国威発揚の好機会となり、同時に日本人乗組員に操船させれば実地訓練にもなり、自信を持たせることもできるとの意見が出ます。

 それは良い案だと採用され、日本人乗組員は長崎海軍伝習所を卒業した一期・二期・三期生の中から選抜されることとなり、海軍伝習所の成果を試す機会となりました。

司令官は木村喜毅(よしたけ)、艦長は勝海舟

 咸臨丸日本人乗組員の陣容は、司令官・木村喜毅、艦長・勝海舟。以下、航海長・機関長・士官や下士官・兵士に至るまで計67名です。

木村喜毅の肖像写真(1860年、慶應義塾福澤研究センター所蔵。出典:wikipedia)
木村喜毅の肖像写真(1860年、慶應義塾福澤研究センター所蔵。出典:wikipedia)

 同乗する米海軍側は海尉ジョン・M・ブルック以下11名で、彼らは米艦で日本近海測量のために来日していましたが、台風に遭遇して艦を失い、帰国の機会を待っていました。経験ある船乗りの彼らには、日本人乗組員の指導・補佐が求められました。

 大航海時代を経て世界の船乗りの間では”ビスケー湾の横風”だの、”吠える40度線”だの、”ホーン岬沖”だの、海の難所が語り継がれていました。しかし日本近海を含む北太平洋は、世界で最も探検航海が遅れた海域として取り残されていました。冬の日本近海から北太平洋にかけての北西季節風が荒れ狂う海域は、世界の海の難所に劣らぬ荒海です。

 しかし日本人伝習生はもちろん伝習所のオランダ教官たちも誰一人として北太平洋を経験したこともなく、情報も持っていませんでした。万延元年(1860)1月、咸臨丸はそんな未知の荒海に乗り出したのです。

艦長不適格者だった勝

 坂本龍馬をして“日本第一の人物”とまで言わしめた勝海舟ですが、艦長としてはそれほどでもなかったようです。

 どうも勝は体質的に船に弱かったらしく、太平洋のど真ん中で波に揉まれる船に耐え兼ねたのか「俺は帰る、バッテラを降ろせ」と喚いたとか。バッテラというのは、小型のボートのことで、幕末から明治にかけてそのように呼ばれました。これはポルトガル語の“バテイラ”から来ており、オランダではバテリラと呼びます。

 サンフランシスコ入港の際にも、米国軍艦の礼砲に応えるため、将校で砲術長の佐々倉が答砲を撃つ許可を求め、対して勝は言います。

勝:「失敗すると恥になるからやめておけ」

佐々倉:「失敗などしない」

勝:「勝手に撃て。成功したら俺の首をやる」

 売り言葉に買い言葉。気の強い佐々倉は見事に答砲を撃ち、勝の鼻を明かしますが、勝はそのままダンマリ。「艦長の首はどうします?」と問われた佐々倉はこう答えたとか。

佐々倉:「首無しでは操艦も不自由だろう、日本に帰るまで預けておく」

 このほかにも諸々あり、勝は艦長の適任者ではないとして、帰国後に海軍部外に放逐されます。勝は明治31年(1898)10月付の文倉平次郎宛ての書簡で「拙者帰朝後万事不都合」と書き出し、海軍の職を罷免になったこと、関係者らと関係を絶ったことを自ら述べています。

徹底していなかった艦内規律

 米国軍人は日本人乗組員には艦内規律が無いに等しいと感じました。平常時、非常時ともに航海日誌には当直士官の名前が書いてありましたが、「いつも当直らしい水夫がデッキの片隅に蹲っている」だけだったようです。現場に詰めていなければならぬ士官の姿はどこにも無く、日本側は事が起これば呼びに行けば良いと考えていたようです。

 船の運用術もお粗末でした。伝習では好天の昼間航行を繰り返していただけで、荒れる北太平洋などは想定外でした。悪天候の元で日本人乗組員は帆を広げることもできず、舵手は風を読んで舵を取ることが出来ません。そもそも最初の1、2週間は日本人は全員が酷い船酔いで、使い物になりませんでした。

 咸臨丸はこの航海で2度の大嵐に会いましたが、滑り止めにデッキに撒く砂も積んでいません。落水者が出なかったのは幸運な偶然に過ぎなかったのです。

火気取扱いに鈍感

 日本人は火気の取扱いにも鈍感でした。咸臨丸は航海中2度の失火を起こしていますが、1度目は出港後2週間目の嵐の夜で出火場所は炊事室です。2度目はサンフランシスコ湾北東にあるメーア島米国海軍造船所ドックで、咸臨丸の整備を行っている時に福沢諭吉が起こした失火騒ぎです。

 米軍海尉ブルックはある晩、デッキに出たところ、日本人士官たちが食事をしているのを見て驚きました。日本人たちは七輪や座布団をデッキに並べて座り込み、七輪で干し魚を炙ったり鍋を掛けたり茶を沸かしたりして食事を楽しんでいたのです。

 ブルックは自身の『咸臨丸日記』に呆れたように書いています。

「彼らはデッキでピクニックを楽しんでいる」

ジョン・マーサー・ブルックの肖像(出典:wikipedia)
ジョン・マーサー・ブルックの肖像(出典:wikipedia)

おわりに

 お粗末な航海でしたが、咸臨丸は2月の末には無事サンフランシスコ湾に入港します。38日間の旅程でした。帰路は好天にも恵まれ、日本人乗組員も操船にも慣れ45日間の航海は概ね順調でした。当直の問題なども改善されましたが、復路の成功で往路の問題点が隠されてしまい、幕府海軍は航海技術や人的資源運用の問題の根本的解決の機会を失いました。


【主な参考文献】
  • 藤井 哲博『長崎海軍伝習所』(中央公論社/1991年)
  • 合田一道『咸臨丸栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社/2000年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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