「ジョン万次郎」七つの海を旅した初めての日本人!漂流・渡米・帰国、大冒険の生涯を追う

 鎖国という政策をとっていた近世の日本。しかし、長崎の出島で知られるように限定的な海外との窓口は設けられていたため、完全なシャットアウトではありませんでした。事実、近海を外国船が航行することは珍しくなく、海難事故でその船員らが漂着することもありました。

 そしてまた逆に、日本の船乗りが漂流してしまい、海外へと至ったケースもありました。潜在的にはその多くが帰国を果たせなかったと考えられますが、歴史上幾人かの漂流者が長い旅のはてに故国の土を踏んだことが記録されています。そんな漂流経験者のうち、幕末においてもっとも有名といっても過言ではないのがジョン万次郎(ジョン まんじろう)ではないでしょうか。

 漁師だった万次郎は漂流から救出されてアメリカへと渡り、そこで身につけた英語力を武器に、帰国後には幕府の通訳として重要な任務を果たしています。今回はジョン万次郎の波乱の生涯を概観してみることにしましょう。

出生~少年時代

 万次郎は文政10年(1827)、土佐国幡多郡中ノ浜(現在の高知県土佐清水市中浜)に漁師・悦介の次男として生を受けました。

 9歳頃で父を亡くし、幼少から家計を助けるために働いた万次郎は、10歳の時に中浜浦の老役・今津太平宅へ下働きに出ました。しかしこの勤務は非常に過酷だったようで、万次郎は漁師になることを希望。やがて宇佐(現在の高知県土佐市市宇佐町)の筆之丞という漁師のもとで働くようになりました。

高知県土佐清水市中浜にあるジョン万次郎の生家
高知県土佐清水市中浜にあるジョン万次郎の生家(出所:wikipedia

漂流~アメリカ滞在時代

 天保12年(1841)1月5日、14歳の万次郎は足摺岬沖で行われるアジ・サバ漁のため、仲間たちとともに船に乗り組みました。船頭は筆之丞が務め、その弟たちなど全5名のメンバーで、年少の万次郎は「炊(かしき)」という食事掛兼雑用としての役を与えられていました。しかし、この船は沖合で漁撈中に突然の暴風に遭遇。コントロールを失ってそのまま流されてしまいます。

 漂流の期間は5日とも10日ともいわれていますが、やがて伊豆諸島のひとつ鳥島に漂着。海藻や海鳥、自然に溜まったわずかな真水などで命をつなぎ、実に143日間をこの無人島で過ごしました。

 やがてアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号のクルーが食料の海亀を捕獲するためにこの島に上陸。発見された万次郎たちは救助されて、ウィリアム・ホイットフィールド船長のもとに保護されます。ただ、鎖国中の日本へと外国船でそのまま戻ることは叶わず、一行は捕鯨航海を終えたハラウンド号に同乗し、アメリカ方面へと向かいました。

 同年11月20日、ハワイ・ホノルルに寄港した際、万次郎以外の日本人船員4人はここで下船。うち1名はハワイに永住、1名は病死、船頭の筆之丞とその弟の一人五右衛門はのちに日本への帰還を果たしています。

 万次郎はただ一人、ハラウンド号に残留し、そのクルーとしてアメリカ本土を目指すことを決めたのです。

ジョン万次郎が航海した際の主な寄港地(鳥島~フェアヘーブン)
ジョン万次郎が航海した際の主な寄港地(鳥島~フェアヘーブン)

捕鯨船員時代~帰国

 万次郎は乗り組んだ船のジョン・ハラウンド号に因んで「ジョン・マン」の愛称で呼ばれるようになります。実は「ジョン万次郎」という呼び名は歴史上のものではなく、井伏鱒二の小説タイトルから浸透したものとされています。

 1843年5月7日、捕鯨航海を終えたハラウンド号はマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港しました。16歳の万次郎はやがてホイットフィールド船長の故郷であるフェアヘーブンで、彼の養子のようにして過ごし、オックスフォード校の初級クラスで小学生たちに交じって学習をはじめます。のちにはバートレット専門学校の上級クラスへと進み、ここで英語・数学・測量・航海術・操船などを履修し、首席となっています。

 1846年、19歳となった万次郎はかつてジョン・ハラウンド号のクルーだったアイラ・デービスが船長を務める捕鯨船・フランクリン号にクルーとして乗り組みました。

 大西洋経由で喜望峰をまわり、インド洋から太平洋へと出る周回航路を経験し、寄港したホノルルではかつての日本人船員の仲間たちと再会しました。

ジョン万次郎がフランクリン号で航海した際の主な寄港地(ニューベッドフォード~マニラを行き来)
ジョン万次郎がフランクリン号で航海した際の主な寄港地(ニューベッドフォード~マニラを行き来)

 そして1848年7月、21歳の万次郎はフランクリン号の一等航海士兼副船長に任命され、捕鯨航海で文字通り「七つの海」を旅した初めての日本人となったのです。

 1849年9月、船を降りた万次郎はゴールドラッシュに沸く当時の金鉱で働き、まとまった資金を手にします。そしてホノルルへと渡り、筆之丞・五右衛門と合流。1850年12月7日、上海行きの商船サラ・ボイド号で帰国の途につきました。

 ここには自ら購入したアドベンチャー号という小舟を積んでおり、嘉永4年(1851)についに沖縄本島(琉球国摩文仁間切小渡浜)へと上陸を果たしました。

帰国後~最期

 いまだ鎖国化の日本において、万次郎らは那覇→翁長(現在の沖縄県豊見城市)→鹿児島→長崎奉行所と次々に移送されて取り調べを受け、白州での尋問は18回にも及んだといいます。

 西洋の最新知識に関心の深かった当時の薩摩藩主・島津斉彬は、万次郎らの得た知識と技術の価値をよく理解しており、一行は薩摩では厚遇を受けたといいます。

 長崎でキリシタンではないという証明を得た万次郎らは、土佐から迎えに来た役人に連れられて11年ぶりに帰国。このとき70日間にわたって彼らの取り調べを行ったのが、吉田東洋でした。

その後、万次郎は実母とわずか5日間のみ再会、士分へと取り立てられて藩校「教授館」の教授として着任しました。万次郎が直接指導した人物には後藤象二郎や岩崎弥太郎らがおり、幕末土佐に多大な知的財産をもたらしたといえるでしょう。

 嘉永6年(1853)7月、ペリー提督率いる黒船艦隊の来航を受けた幕府は外国知識の吸収を焦眉の急と認定。同月25日、万次郎は急きょ江戸へと招聘。幕府直参である旗本の身分を与えられ、出身地名から「中浜(濱)」の苗字を授けられました。

 伊豆韮山代官・江川英龍の配下となった万次郎は安政3年(1856)、軍艦教授所の教授に任命されて造船・測量・操船・翻訳など多岐にわたる任務をこなしました。このとき万次郎から英語を習った人物に、のちの陸軍奉行・大鳥圭介らがいます。

 万延元年(1860)、万次郎は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節団の一員として咸臨丸に乗り組みました。不慣れな長期航海の船酔いで指揮をとれなかった勝海舟に代わり、同乗していた米海軍士官らとともに船務にあたったといいます。同行していたクルーの一人に福沢諭吉がいたことはよく知られています。

 帰国後の万次郎は文久元年(1861)に外国奉行・水野忠徳らとともに小笠原諸島の調査、翌年には外国船「一番丸」船長として小笠原諸島近海で捕鯨に従事しました。

 元治元年(1864)には薩摩藩開成所教授、慶応2年(1866)には土佐藩開成館教授を歴任。翌慶応3年(1867)にも薩摩に招聘されて諸学を教授しましたが、倒幕の時局から江戸へと帰還。維新後の明治2年(1869)には開成学校(現在の東京大学)で英語教授を務めました。

 明治3年(1870)には大山巌らとともに普仏戦争視察団の一員として渡欧。翌年の帰国後に軽い脳溢血で倒れ、回復後は教育者や船乗りとして静かな余生を過ごしたとされています。

 明治31年(1898)11月12日、万次郎は東京京橋弓町で71年の生涯を閉じました。当初谷中の仏心寺にあった墓は、現在では豊島区の雑司ヶ谷墓地に移されています。

おわりに

 漂流という過酷なサバイバル環境を生き抜き、なおかつ自ら異国での生活に身を投じ、奇跡の生還を果たしたジョン万次郎。彼が航海したのは実に地球2周分の距離ともいわれ、名実ともに七つの海を旅した初めての日本人となりました。

 その人柄は謙虚で温厚だったといい、穏やかに過ごしたとされる晩年には困窮者への救済活動を積極に行ったと伝わっています。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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