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【やさしい歴史用語解説】「異名(いみょう)」
- 2022/08/22
歴史上の人物を語る時、人となりや雰囲気・事績などを表す形容詞となるのが「異名」というもの。例えば「甲斐の虎」や「相模の獅子」あるいは「肥前の熊」など、戦国武将の強さをイメージさせるものが思い浮かぶと思います。
そんなかっこいい異名ですが、当時からそう呼ばれていたわけではありません。異名の多くは江戸時代になってそう呼ばれたもので、戦国武将に憧れた人々が「強い武将」を表すために名付けたものでしょう。虎や熊などは最強で知られた動物ですからね。
異名の由来について、ちょっと具体例を挙げていきましょう。まずは「甲斐の虎」こと武田信玄です。
この異名が初めて出てくるのは、江戸時代中期のことです。「信州川中島合戦」という浄瑠璃作品を近松門左衛門が執筆し、享保6年(1721年)に竹本座で初興業が開催されました。
もちろん信玄と謙信が激突した川中島の戦いを題材にした作品ですが、劇中で信玄のことを「甲斐の虎」と呼ぶシーンがあります。この作品の大ヒットによって「信玄=虎」というイメージが出来上がったのではないでしょうか。
それから今川義元には「海道一の弓取り」という異名がありました。「海道」とはいわゆる東海道のことを表し、「弓取り」とは武勇に優れた人を指します。いわば東海地方で最も優れた武人だという意味になるわけですね。ところがこの異名を持つ人物がもう一人います。それが三河・遠江・駿河を領した徳川家康でした。
さて、義元と家康どちらが本家の「海道一の弓取り」になるのでしょうか?
実際のところ史料として残っているのは家康の方です。江戸幕府の公式史書である「徳川実紀」には、三方ヶ原の戦いのあと、浜松城まで攻め寄せてきた馬場信春が「徳川殿は、海道一の弓取りと呼ばれるほどの名将ゆえ油断するな」と訝しむシーンが出てきます。とはいえ「徳川実記」は徳川将軍家をヨイショした史書ですから、どこまでが真実なのか確定できないところですね。
そういう意味では、真田信繁に付けられた「日本一の兵」のほうが出典ははっきりしています。とはいえ実際に大坂の陣で信繁を目の当たりにした人物がそう呼んだわけではありません。
実は当時、戦場にはいなかった薩摩藩主・島津忠恒でした。薩摩藩の記録集である「薩藩旧記雑録」の中ではこう記載されています。ちょっと現代文に訳しますね。
「左衛門佐の勇猛ぶりは『日本一の兵』であり、古来の軍記物語も遠く及ばないことだろう。」
この記録は江戸時代にまとめられたとはいえ、薩摩藩で過去に起こった出来事を脚色なしで描写しています。そのため非常に信憑性が高いとされていますね。実際に見ていない忠恒が「日本一の兵」と評したのは、信繁の勇猛ぶりを人から伝え聞いたためでしょう。
まるで目の前で見ているかのようなリアルな表現で、信繁の活躍ぶりを称えているのです。
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