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【やさしい歴史用語解説】「新田開発」
- 2023/08/31
「新田開発(しんでんかいはつ)」という用語ですが、読んで字の如く「新しく土地を開墾して田畑を増やす」という意味になります。同義語では「農地開拓」「農地開墾」とも呼ばれますが、ここでは一般的な「新田開発」を用いることにしましょう。
日本で稲作が始まって以来、新田開発はずっと続けられてきましたが、時の政権が開墾を広く奨励したのが奈良時代初期の「三世一身法」が初めてでした。これは農民が自力で農地を開墾するなら、3世すなわち子・孫・曾孫の代まで私有地として認めますよ。という法律です。しかし3世が過ぎれば国に没収されてしまうため、あまり効果はありませんでした。
そこで奈良時代中期に出されたのが「墾田永年私財法」です。3世どころか未来永劫にわたって私有地として認めるから、頑張って開発してくださいというもの。ところがこの制度に目を付けたのが、一般庶民ではなく貴族や寺社といった有力者たちでした。こぞって新田開発したことで私有地は荘園へと進化を遂げ、上流階級の既得権益と化してしまったのです。
やがて鎌倉時代になって武士の世が始まると、新田開発の一大ブームがやってきます。ちなみに平安時代までは「墾田」と呼ばれていたのですが、鎌倉時代以降は「新田」と呼ぶようになっていますね。
鎌倉~室町期にかけて多くの新田が開発されていますが、その裏には農業技術の躍進がありました。肥料として人糞が用いられたり、あるいは灌漑設備が発達したことで、川の中・下流域だけで行われていた稲作がどんどん広がっていったからです。そして田植えの習慣が始まったのも大きいでしょう。従来の直播きでは作業こそ楽ですが、収穫量はさほど期待できません。こうして全国のあちこちへ水田が広がっていきました。
そして江戸時代中期になると、新田は爆発的に増えていきます。いわゆる農村における高度経済成長期ですね。
まず享保年間にとても便利な備中鍬が登場して作業効率が高まります。また千歯扱(せんばこき)が普及したことで面倒な脱穀作業の能率化が図られました。
そうした農業技術の向上に加えて、劇的な影響をもたらしたのが江戸幕府の方針です。幕藩体制は経済をコメに頼っていますから、何より安定した税収が求められました。すなわちコメをどんどん作れば作るほど、お上も領民も豊かになるという考え方です。
そこで大々的に奨励されたのが新田開発でした。平地だけでなく山間部や荒れ地にまで田畑は広がり、手賀沼や印旛沼、果ては有明海まで干拓されて農地と化していきました。
こうした新田開発フロンティアは、社会の在り方も変化させています。まず新田が広がったことで人口も爆発的に増え、江戸時代中期から明治時代にいたるまで3千万人強で推移しました。飢饉による誤差こそあるものの、おおむね日本人の食を支えたのは新田開発の恩恵だといえるでしょう。
また広い農地の確保は多くの副産物も生み出しています。それは諸藩が奨励した特産品だったり、商品作物といったコメ以外の作物です。こうした副収入を得た藩が財政改革に成功し、やがて幕末維新の雄藩として活躍したのは歴史が示す通りですね。
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