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【やさしい歴史用語解説】「出家」

明石則実
 2022/11/10
歴史用語として広く用いられる「出家(しゅっけ)」という言葉ですが、多くの方が理解しているように世俗の生活を捨て、僧として仏教の修行をすることです。若くして仏道に勤しんで出家するケースもありますし、亡くなったのちに出家させる「死後出家」という形式もあります。

ところで多くの戦国武将がそうであるように、なぜ武士から出家して法体になる人物が多いのでしょうか?今回はその謎を解き明かしていきましょう。

世俗の人が往生を願って出家する風習は9世紀半ばから一般化しますが、実権を握ったまま出家するケースは 11世紀になって初めて登場します。

平安時代後期の院政期には皇室から摂関家へ広まり、やがて一般の貴族に広まっていきました。また武士が出家するムーブメントも同時期に始まったと考えられます。

※院政期に治天の君として権勢を握った鳥羽法皇(wikipediaより)
※院政期に治天の君として権勢を握った鳥羽法皇(wikipediaより)

ちなみに出家すると朝廷での官位・官職は辞する必要がありました。ところが出家の身分でありながら、保持した権力をそのまま握ってしまうケースが増えていきます。

例えば摂関家ですと、関白を辞して出家した大殿が、今の関白を越える力を持つことも珍しくありません。また武家ですと平清盛や足利義満らも出家した身でありながら、摂関家や将軍を凌ぐ実力を持っていました。

このように出家といえば、俗世間から離れて仏道の修行に勤しむというイメージがありますが、実際の中世社会ではレアケースだったようです。出家しても立ち位置や権利はそのまま。寺院に属さずに一般的な生活を送る「在俗出家」が中世では普通になっていました。

ちなみに鎌倉幕府の評定衆を見ると、在俗出家した者は半数を越えていますし、一般的な惣村においても有力農民の実に4割が在俗出家だったとされています。

また武士が出家する理由もさまざまでした。

① 自発的出家
発病や高齢、あるいは親しい者の死に伴う自発的な出家です。あるいは政治的不満が原因で出家するケースもありました。上杉謙信などが特に有名でしょうか。また源平合戦で平敦盛の死を悼んだ熊谷直実が出家したケースも知られています。

※平敦盛を追い詰める熊谷直実を描いた蝋人形。熊谷はのちに出家して蓮生と号する(wikipediaより)
※平敦盛を追い詰める熊谷直実を描いた蝋人形。熊谷はのちに出家して蓮生と号する(wikipediaより)

② 強制的出家
これは政治的・軍事的敗北に伴って、敗者に対して出家を強要したものです。豊臣秀吉に敗れた島津義久や佐々成政が該当するでしょうか。また夫を亡くした妻、主君を失った家臣などにも「出家するのが当然」という無言の圧力が加わりました。

③ 政治的駆け引き
南北朝期や戦国時代には戦いが激しさを増し、一時的な敗北のたびに助命嘆願のため出家する者が大量に現れました。足利尊氏は宮方に降伏して出家していますし、弟・直義もまた尊氏との争いに敗れて出家しています。

また、武田信玄が出家した理由として、上杉景虎(謙信)が上洛し、天皇・将軍への拝謁を受けた事実に対して、家臣や領民へ「先を越された」ことによる謝意の意思があったからという説もあります。
つまり出家して誠意や謝意を示すことによって、罪科や批判をかわす政治意図があったということでしょう。

※出家して信玄と号した武田晴信(wikipediaより)
※出家して信玄と号した武田晴信(wikipediaより)

ところが江戸時代になると、習慣として一般化していた在俗出家は姿を消していきます。

実は江戸幕府の宗教政策によって檀家制度が広まり、往生・成仏を祈る体制が整備されたためでした。こうして世俗の人々が安易に出家することはなくなったのです。

  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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