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【やさしい歴史用語解説】「鉄砲(火縄銃)」
- 2022/09/12
天文12年(1543年)のこと。領主・種子島時尭は、漂着した中国船に乗っていた南蛮人から2挺の鉄砲を買い入れました。その価格は現在の価値で2億円だったとも…
時尭はさっそくコピーを作ろうと、関出身の八板金兵衛に製造を命じますが、銃身の底を塞ぐ方法がどうしても見つかりません。金兵衛は「分解してみたい」と願うものの、1挺1億円の銃の分解など許されるはずがありません。困ったあげく、娘の若狭を南蛮人に嫁がせることで、ようやく銃底を塞ぐ技術を教えてもらったといいます。日本で作れなかったネジの技術が初めて採用された瞬間でした。
こうして鉄砲のコピー品が数十挺も製造され、薩摩の島津氏の元へ送られます。ちなみにオリジナルは、1挺が本源寺経由で将軍・足利義晴へ献上されました。そしてもう1挺は、紀州根来寺の杉ノ坊算長がやって来て買い付けたそうです。
ちなみに従来の通説によると、足利義晴が近江国友村へ鉄砲の製造を命じたとされていますが、近年この説は揺らぎつつあります。それはベースとなる「国友鉄炮記」は二次史料に過ぎず、信憑性がかなり薄いためです。
いっぽう「国友助太夫家文書」という文書によって、北近江の戦国大名・浅井氏が国友村で鉄砲製造を始めた。という研究結果が導き出されました。隣国越前の朝倉氏も鉄砲を贈答用として購入したそうですから、当時から国友の鉄砲は知られていたのでしょう。
そしてもう一つのオリジナル銃を元に、紀州根来寺でコピー品が製造されるようになります。その技法は隣の雑賀へ伝わり、戦国最強の鉄砲集団・雑賀衆を支える存在となりました。
また、堺でも鉄砲の製造が盛んとなります。堺の商人・橘屋又三郎が種子島を訪れて鉄砲の製法を学び取り、それをフィードバックしてきたのです。
堺には古くから鋳造・鍛造の高度な技術が伝えられており、有数の港湾都市ということもあって、火薬の原料となる硝石が手に入りやすい利点がありました。さらに大量生産を支えたのが分業制です。銃身を作る鉄砲鍛冶が元請けとなって、部品ごとに下請け職人へ発注を掛けました。そうすることで短納期のうちに製品が出来上がり、コストメリットも大きくなったのです。
こうして日本は世界でも有数の鉄砲保有国となり、江戸時代に大きく数を減らすものの、幕末に至るまで鉄砲が作り続けられました。しかし鎖国による技術革新の停滞は尾を引き、やがてミニエー銃やシャスポー銃といった新しい鉄に取って代わられていくのです。
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