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【やさしい歴史用語解説】「一揆」
- 2022/02/14
ところが、実際の農民一揆はちょっと違います。年貢の減免を願う目的は同じですが、あくまで数の暴力に訴えることなく、嘆願書を持って代官所なりに出頭するだけです。これを「越訴(おっそ)」と呼び、あくまで正式な手続きに則った訴えに過ぎません。
江戸時代も末期に近くなると、幕府や藩の権威が失墜したこともあり、かなり乱暴な一揆が起こるようになります。「強訴(ごうそ)」や「打ちこわし」といった手段に訴えるパターンが出てきました。
「強訴」は集団で徒党を組み、強引に請願を認めさせるやり方。さらに「打ちこわし」は領主へ訴えるどころか、富裕な商人や豪農を襲って屋敷や蔵を壊してしまうという恐ろしいものでした。それでも農民の恨みや憎しみが領主へ向かうことはなかったといいます。江戸時代は儒教教育が庶民レベルで広まり、身分や秩序をわきまえる考えが一般的でした。お上に逆らうことなく訴える方法として、一揆という手段が取られたわけです。
ところが江戸時代と違って中世における一揆は、その人数といいパワーといい桁外れでした。目的を達するためなら何でもアリ。為政者と事を構えようが意に介さないほど凄まじい集団心理が働いていました。
中世の一揆には大きく分けて3種類あります。それが「土一揆」「国人一揆」「一向一揆」と呼ばれるもの。
まず「土一揆」というのは庶民レベルでの一揆のことです。年貢減免だけでなく、借金棒引き令(徳政令)を出せと要求したり、あるいは「あそこの代官が気に入らないから更迭しろ」といったものまで、その目的は様々でした。京都の町中へ乱入して放火・略奪を働くなど、まさにハードバイオレンスな集団だったようです。
こうした土一揆に対して、室町幕府もほとほと手を焼いたようで、時に徳政令を出したり、要求を丸呑みするなど鎮圧に苦慮したそうです。こうした民衆のパワーの源は、地縁的繋がりによる惣村や講、あるいは馬借や車借といった同業者集団によるものでした。為政者の政治に対し、庶民がノーを突き付ける時代だったわけです。
いっぽう「国人一揆」は、国衆や土豪といった地縁的繋がりを持った地侍が起こすものでした。例えば、新しく入ってきた守護大名の方針が気に入らなければ、力づくで追い出そうとしますし、時に大きな合戦に発展することもあります。これも領主権力に抵抗するための集団組織だと言えるでしょう。
最後に「一向一揆」ですが、これがもっとも強烈でしょうか。一向宗の信仰を守るために立ち上がり、時には領主層を打ち倒すほどのパワーを見せました。武士や庶民の区別なく、宗徒であれば誰でも参加できることが大きな特徴です。動員人数も他の一揆の比ではなく、10万単位の宗徒たちが集団になることも珍しくありませんでした。
戦国時代の後半になると一向一揆の意義は、総本山である本願寺を守るためのものとなります。織田信長と激烈な抗争を繰り広げ、全国規模で激しい抵抗を見せました。民衆の信仰心と集団心理とは、もっとも支配層を悩ませた問題だったのかも知れません。
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