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京都御所・鬼門の猿が見ていた暗殺事件、猿ヶ辻の変とは?

京都御所といえば明治になるまで、天皇、皇后の住まいとして使われており、現在でも天皇、皇后の宿泊や国賓の宿泊に使用されている、広大な敷地を誇る場所です。

パワースポットでもあり、現在ではとても静かで落ち着いた場所ですが、昔は暗殺事件や戦争などいろいろな事件が起こった場所でもあります。

今回はそのうちの事件のひとつ、猿が辻の変を取り上げてみたいと思います。

猿が辻とは?

京都御所の北東の角は御所の鬼門に当たります。

鬼門は鬼が忍び入る方角とされ、縁起が悪い・不吉だといわれてきたため、その対策として鬼門の位置の築地塀が欠けています。そしてこの欠いた部分の屋根下には猿が祀られています。

烏帽子をかぶり、御幣を持った木彫りの猿(ちょっと見えにくいですね…)ですが、この猿の意味とは何でしょうか? それは日吉山王社の神の使いが「神猿(まさる)」で、魔が去るといえることから縁起が良いとされ、猿が置かれるようになったといいます。

実はこの猿は毎夜抜け出して奇声をあげたり、通行人にいたずらをするために金網で封じ込められている、という言い伝えもあるとか。

一般の建築でも鬼門(北東の角)に盛り塩をしたり、魔除けとなるヒイラギを植えたり、猿の置物を置いたりということもあるそうです。

このことから、ここは猿が祀られている辻、「猿が辻」と言われるようになりました。

猿が辻で起こった事件とは?

1863年(文久3年)尊王攘夷派の公家、姉小路公知が暗殺されました。姉小路公知が襲われたところが猿が辻の近くだったことから猿が辻の変、または近くにある門から朔平門外の変とも言われています。

姉小路公知は当時の朝廷の中心人物で、三条実美とともに活躍しており、尊王攘夷派の過激派として知られていました。

『京都守護職始末』(山川浩 著:郷土研究社)には襲撃の様子の詳細が書かれています。
それによると姉小路公知は御所の宣秋門という門を出て、北側にある朔平門を通過しようとしたところ、突然刀を手に武装した三人が現れ襲われたといいます。

犯人たちは刀と下駄をのこして去りましたが、その刀から薩摩藩の田中新兵衛という人物が容疑者として逮捕されました。

田中新兵衛は薩摩藩士で「人斬り」と呼ばれる一人でしたが、尋問中に自刃してしまい、結局犯人であるかは不明のままです。

刀を特定されて、罪が決定的になったためにあきらめて覚悟の死を遂げたのでしょうか。明治になってからの話では、当時「田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていた」という証言が出てきたそうで、刀を盗まれたことを恥じて自刃したという説もあるようです。

まとめ:猿が辻の現在は?

京都御所に訪れてみました。桜がきれいに咲き誇り、お花見をしている観光客も多数みかけられます。しかし猿が辻の方はしんと静まっており、静かに散歩を楽しむ人も。

毎日散歩をしているような人でも、この北東のくぼみがいったい何なのか知らないままの人は多いかもしれません。暗殺事件は静かで平和な今の御所からはあまり想像ができないですよね。

暗殺事件に限らずここで起こったいろんな出来事も、この猿が見ていたかもしれません。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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