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【やさしい歴史用語解説】「鎌倉殿」
- 2022/12/14
「平治の乱」で平氏に敗れ、伊豆へ流された源頼朝ですが、周辺の豪族たちの力で関東に一大勢力を築き上げます。その頼朝が拠り所としたのが「鎌倉」でした。
なぜなら平安時代中期に活躍した源頼義以来、河内源氏は東国支配の拠点を鎌倉に置いていたからです。頼朝が鎌倉に腰を据えたのも自然なことだったでしょう。
そして頼朝のもとに集まった武士たちは、実質的な東国の主となった頼朝を「鎌倉殿」と呼びました。これが治承4年(1180年)のことですから、征夷大将軍に就任するずっと前の話です。
鎌倉時代がいつから始まったのか? これは議論の分かれるところですが、寿永2年(1183年)には東国の支配を認められ、侍所や公文所・問注所の設置、また守護・地頭の設置を許されるなど、頼朝はその立場を確立しています。すでに東国における武家政権はスタートしており、この時をもって鎌倉時代が始まったと唱える研究者もいるほど。
ちなみに鎌倉政権に従う御家人たちは源氏ばかりではありません。北条氏や三浦氏のように平氏出身もいますから、実質的には連合政権のようなものでした。御家人たちは自らの権益を守るべく、頼朝をリーダーとして仰いだに過ぎません。
やがて平氏や奥州藤原氏が滅亡すると、頼朝は朝廷に急接近していきます。
京都育ちゆえに雅な京風文化に憧れたのか?それとも平氏に成り代わって政治を牛耳りたかったのか?いずれにしても朝廷との繋がりを深めていきました。長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのもそのためです。
しかし頼朝の行動は、鎌倉の御家人たちの反感を買うものでした。「鎌倉殿は平氏の轍を踏むおつもりか?」と。頼朝が権大納言・右近衛大将に任じられるものの、すぐさま辞した理由はそこにあります。高い位をもらえばもらうほど京都を離れることができず、そうなると鎌倉で疎かになってしまうでしょう。
そこで望んだのが「征夷大将軍」でした。征夷大将軍は令外官(りょうげのかん)といって、いわば臨時の職でありながら高い位が与えられます。しかも朝議や儀式に参加する義務がありません。頼朝は苦肉の策をもって征夷大将軍となったわけですね。
2代将軍・頼家のケースを見ると、まず鎌倉殿ありきの地位となっています。実際に征夷大将軍に就任するのは跡を継いでから3年後のことでした。御家人たちにとって鎌倉殿の存在こそが大事なのであり、将軍という肩書は二の次だったのでしょう。
そう考えると「鎌倉殿 ≧ 将軍」という図式がしっくりくるのではないでしょうか。しかし3代将軍・実朝の代になると、跡を継ぐと同時に征夷大将軍に就任していますから、この時点から「鎌倉殿=将軍」という認識が定着していくのです。
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