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【やさしい歴史用語解説】「御恩と奉公」
- 2022/12/14
かつて平安時代に興った武士団では、主君に対して「家人」や「郎党」が存在していました。まだ京都の院や朝廷が大きな力を持っていた時代ですから、武士はあくまで朝廷に対する奉公人に過ぎません。
しかし源頼朝が台頭して平家を滅ぼして東国に武家政権を打ち立てると、従来の主従関係より強固な繋がりが求められるようになります。将軍に直接仕える武士は「御家人」と呼ばれ、それ以外の者は「非御家人」とされたように明確な区別が生まれ、この上下関係が幕府を支える基礎となりました。
そこで将軍と御家人の間で交わされた契約が「御恩と奉公」というもの。いわば「御恩」は将軍から御家人へ与えるもので、「奉公」は御家人から将軍へ与えるものでした。
当時の武士にとって領地は命の次に代えがたい存在です。収入は土地から得られますし、手柄を挙げれば恩賞として土地がもらえます。そうして血と汗で得た領地を代々引き継いでいくことが子孫繁栄のカギとなりました。
そこで大事な領地を保障してくれる存在が将軍だったのです。これを「本領安堵」といい、将軍は「安堵状」という証明書を発行することで土地の領有権を認めていました。また手柄に応じて新たな土地を与えることを「新恩給与」と呼びますが、これも将軍が「充文(あてぶみ)」を発給して保障しています。
こうした「御恩」を将軍が与えることにより、御家人は安心して生活できますし、土地を奪おうとする外敵に怯えることもありません。
いっぽう将軍から「御恩」を与えられるだけでは主従関係は生まれません。御家人はその見返りとして「奉公」が求められました。将軍や幕府に万が一のことがあれば駆け付けたり、大番役などの警備を引き受ける場合もありました。御家人たちの奉公によって将軍は武力を手に入れ、朝廷が介入できないほどの実力を手に入れたのです。
また源氏将軍が絶えたあと、執権として政権を担った北条義時が「御恩と奉公」を逆手に取ったケースがあります。
京都の後鳥羽上皇が幕府と不和になり、「北条義時追討の院宣」を出した時のこと。動揺する御家人たちに対し、「これは鎌倉幕府を滅ぼすためのもの」として姉・政子に効果的な演説をさせました。
「鎌倉殿のおかげで皆の領地は増えた。その恩は山よりも高く海よりも深い。今こそ幕府に奉公するべき」
と。
これを聞いた御家人たちは奮い立ちます。そして19万という空前の大軍を催して京都へ進撃し、上皇方を打ち破るという奉公を成し遂げました。
御家人たちは義時を助けたというより、御恩に対して奉公をしたに過ぎません。頼朝の作り出した統治システムが義時の身を助ける結果となったのです。
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