「鎌田正清」舅の裏切りで悲劇の最期 命運をともにした源義朝の忠臣

野間大坊にある政清夫妻の墓(出典:wikipedia)
野間大坊にある政清夫妻の墓(出典:wikipedia)
 源頼朝、義経の父・源義朝の側近に鎌田正清(かまた・まさきよ、1123~1160年)という武将がいます。源義朝と同い年で、最後は同じ日に同じ場所で討たれ、文字通り生涯をともにし、命運をともにした腹心です。現在ではそれほど注目されていませんが、軍記物『平治物語』や『保元物語』には鎌田正清の行動が詳しく描写されており、源義朝を語る上では欠かせない武将なのです。

平治の乱、尾張・内海の悲劇

 鎌田正清は、名は政清とも、改名して正家(政家)ともされ、左兵衛尉に任官し、鎌田次郎、鎌田兵衛という呼ばれ方もします。母は源義朝の乳母(めのと)。乳母子の正清は、義朝の幼少時から成長をともにし、一心同体といえる最も信頼された家臣です。

 平治元年(1159)12月の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は大勢での敗走を避け、家臣団と別れますが、鎌田正清は最後まで従います。

入浴勧め暗殺 長田忠致の罠

 平治の乱敗退後、源義朝は長男・義平、次男・朝長、三男・頼朝、源氏一門の源重成、平賀義信、身の回りの世話もする若者・金王丸、それに鎌田正清の計8騎で敗走します。途中、頼朝がはぐれ、義平が味方を募るため北陸に向かい、朝長は戦傷がもとで死亡。青墓宿(岐阜県大垣市)では落ち武者狩りに襲われ、源義朝の身代わりとなった源重成が討ち死に。残った4人と途中で合流した僧侶・源光(げんこう)の計5人での逃避行となります。

 鎌田正清は舅(しゅうと)であり、代々源氏の家来でもある長田忠致を頼ります。知多半島の尾張・内海荘(愛知県美浜町、南知多町)に到着した一行を長田忠致がもてなします。

忠致:「正月3が日をお過ごしになってから東国に向かうのがよいでしょう」

みじめな敗走を続けてきた源義朝はようやく人心地。ところが、長田忠致、景致父子は既に主君を見限っていました。

忠致:「殿をこのまま東に向かわせるのがよいか、ここで討つのがよいか」

景致:「東国に戻ったところでとても助かりません。他人の手柄にするなら、ここで討って平家に差し出して義朝の所領か尾張一国でもいただきましょう」

忠致:「さて、どう討ったらいいか」

景致:「入浴をお勧めして家来に湯殿(風呂)で討たせましょう。鎌田は酒を飲ませておき、景致が妻戸の陰で待ち構え、事態を知って走り出たところを仕留めます」

 平治2年(1160)1月3日、長田父子は計画通り、湯殿に3人の刺客を突入させて源義朝を暗殺。「正清はおらぬか、金王丸はいないか。義朝は今まさに討たれたぞ」との叫び声を聞き、走り出た鎌田正清は長田景致に両膝を切られ、「正清もお供にまいります」と無念の自害。源義朝、鎌田正清、ともに38歳でした。

湯殿の暗殺はなかった? 覚悟の自害

 僧侶・慈円による歴史書『愚管抄』では、鎌田正清たちの最期は少し違います。入浴を勧める長田忠致に対し、ただならぬ気配を感じます。

正清:「ここから先、脱出は不可能かと思われます。形勢は最悪です」

義朝:「その通りだ。みな分かっている。この首を打ち落としてくれ」

 2人は裏切りの気配を察し、覚悟を決めます。鎌田正清は源義朝の首を落とし、ただちに自害しました。
なお、主君を裏切った長田忠致、景致の思惑は大きく外れました。

 鎌田正清の妻は父への恨みごとを言って、正清の刀で自害。28歳で夫の遺体に添い伏して亡くなります。長田忠致は「義朝を討ったのは子に豊かな暮らしを送らせるためなのに」と嘆きますが、後の祭り。
そして京で平清盛に会い、忠致は壱岐守、景致は左衛門尉に任官しますが、不満を訴えます。

忠致:「朝敵の義朝、正清を速やかに討ったのですから義朝の所領をそっくりいただくか、住国の尾張をいただくのが当然です。国の果ての壱岐島では何の張り合いがございましょう」

清盛:「先祖代々の主君と現在の婿を討つ、お前たちほど汚い者がいるものか。それでも義朝が朝敵だから一国を与えるのだ。それを辞退するなら仕方がない」

 清盛の逆鱗に触れ、長田父子は得たばかりの職も罷免され、あわてて逃げ帰りました。

涙ながらに義朝の娘を切る

 『平治物語』の中で、鎌田正清は源義朝の娘も切っています。

義朝:「お前に預けたわが姫はどうした」

正清:「ひそかに隠してある女に十分世話するように言ってあります」

義朝:「戦に負けて落ちると聞き、どう思うだろうか。殺害してこい」

 敗走中の正清は京に戻ります。姫は

姫:「敵に捜し出され、義朝の娘だと引きずり回されるのは恥です。佐殿(頼朝)は13歳で戦に出て、父のお供をして落ちる。私は14歳になるが、女の身では父とともに落ちることはできない。私を殺害し、父のお目にかけよ」

と毅然とした態度。「それでは」という正清ですが、どこに刃を立ててよいか分かりません。姫は「敵が近づいてきます。早く早く」と促します。正清は涙ながらに姫の首を取り、源義朝に再合流。義朝は東山近くの旧知の僧侶に姫の首を預けて供養を依頼しました。

 この姫は名も出てこないのですが、父の苦境を把握し、武士の棟梁の娘という誇りと潔さを示します。あまりにも悲しい覚悟でした。

保元の乱では主君の父を斬首

 『平治物語』では忠義一徹だった鎌田正清ですが、『保元物語』ではかなり違った姿を見せます。

 保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇の争いに摂関家の内紛が絡んだ京の戦乱。保元元年(1156)7月11日の戦闘で後白河天皇側が勝ち、同母兄の崇徳上皇は讃岐に配流。関白・藤原忠通と対立した異母弟・藤原頼長が敗死します。源氏は源義朝が後白河天皇に、義朝の父や弟たちが崇徳上皇に加勢。父子兄弟が敵味方に分かれました。

源為朝の強弓に戦々恐々

 戦場で鎌田正清は源為朝を挑発します。源為朝は源義朝の弟で「鎮西八郎」の異名を持ちます。身長2メートルを超す大男で気性は荒々しく、強弓自慢の勇猛な武士です。この源為朝の守る門に鎌田正清が100騎で攻め寄せます。

ここで鎌田正清と源為朝の挑発合戦。

為朝:「お前はわが家(源氏)の家来のようだな。いくら敵とはいえ、どうして代々仕えてきた主君筋に矢を向けるのか。引きのけ」

正清:「日ごろは相伝の主君、ただ今は国家反逆の凶徒。この矢は正清が射る矢ではない。伊勢大神宮、石清水八幡宮の神の矢だ」

 鎌田正清は矢を放つと、すぐに逃げ出します。強弓の為朝に射返されては命がないと恐れたのです。源為朝は兜の吹き返しに刺さった矢を引き抜いて投げ捨て、正清を追いかけます。腕力にも自信があり、鎌田正清を組み伏せようとします。しかし、源為朝は守る門もあり、父・為義は老武者、兄たちも頼りないと、深追いはできません。鎌田正清は何とか逃げ切りました。

正清:「この正清、東国で数度の戦いに参加しましたが、これほど手厳しい敵に出会ったことはありません。追いかけてきた馬の脚音は雷が落ちてくる音かと思いました。ああ恐ろしい」

 この後、鎌田正清は後方待機に徹し、同僚の波多野義通に責められます。

義通:「一度駆けたら、また駆けないのか、鎌田殿。なぜ戦いに向かおうとしないのか」

姑息さをさらけ出し同僚の批判

 保元の乱の後、源義朝は敵についた父・源為義の助命を求めますが、後白河天皇の許しは得られません。源義朝は鎌田正清に相談します。

義朝:「宣旨(天皇の命令書)を重んじて父の首を取れば、仏の戒める五逆罪の一つを犯すことになる。その罪を恐れて父を助ければ、天皇の命令に逆らうことになる」

正清:「父君が朝敵になり、殿は宣旨をいただいたので、あれこれ考えるに及びません。父君を他人の手にかけまいと、お切りになり、その後、よくよくお弔いすれば、一概に罪にあたるとは言えません」

 鎌田正清は一応の理屈を振りかざし、源為義の斬首を進言します。

 その役目も任され、東国へ向かうと偽って源為義を輿に乗せ、途中で輿を乗り換えるときに切ろうとします。これを同僚の波多野義通がだまし討ちのようだと批判し、為義に真実を告げます。為義は源義朝や鎌田正清の不義理を批判しながら最期を迎えます。『保元物語』での鎌田正清は源義朝に頼りにされながらも、姑息さが目立ち、その態度はいちいち批判的に書かれています。

秀郷流藤原氏・名門武家の出身

 鎌田正清の祖先は藤原秀郷。秀郷は平将門の乱を鎮圧した伝説的名将で、子孫から多くの武家を輩出します。

 秀郷流藤原氏のうち、西行(佐藤義清)を輩出する佐藤氏から首藤氏が分かれ、さらに首藤資通の子・鎌田通清が正清の父で、源為義の家臣です。首藤氏も首藤資清が源氏の家臣となり、その子・首藤資通は源義家に従って後三年合戦で活躍。秀郷流藤原氏には早くから源氏嫡流に従う名門武家が多く、鎌田氏もそうした武家の一つです。

 多くの秀郷流藤原氏に属する武家が代々の源氏の家臣として、源頼朝の平家追討、鎌倉幕府創設で大きな役割を果たしますが、鎌田氏に関しては正清の子息の動向が一部の軍記物にしか描かれていません。鎌田正清の最期とともに没落してしまったのが残念です。

おわりに

 主君・源義朝と一心同体で第一の家臣とも言える鎌田正清。『平治物語』では悲劇性が強調され、『保元物語』では滑稽さや狡猾さが批判的に描かれ、両極端の性格を見せています。これは、そのまま源義朝に対する評価に直結しています。保元の乱の苦い勝利と平治の乱の惨めな敗北を主君とともにしたのです。


【主な参考文献】
  • 谷口耕一、小番達『平治物語全訳注』(講談社)講談社学術文庫
  • 日下力訳注『保元物語 現代語訳付き』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 慈円、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』(講談社)講談社学術文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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