「源義朝」平清盛のライバル?頼朝・義経の父の生涯

篠田生米
 2021/12/06
『元平治合戦源義朝白河殿夜討之図』に描かれている源義朝(歌川芳虎画、東京都立図書館 蔵)
『元平治合戦源義朝白河殿夜討之図』に描かれている源義朝(歌川芳虎画、東京都立図書館 蔵)

鎌倉幕府の創始者となった源頼朝、治承・寿永の内乱で鎌倉軍の指揮官として活躍した義経と範頼。彼らは母親こそ違いますが、同じ血を分けた兄弟でした。頼朝が流人として長い時を過ごすことになったのも、父の源義朝(みなもと の よしとも)と共に参戦した戦いに敗北したことが原因です。

源義朝は平清盛とほぼ同世代であり、平氏が栄華を極める前の時代を生きた人物でした。今回はそんな彼の生涯に迫ります。

出生と東国下向

河内源氏嫡流として

義朝は河内源氏嫡流であった源為義(ためよし)の長男として、保安4(1123)年に京で誕生したと考えられています。

河内源氏は平忠常の乱を平定した頼信を祖とし、その子・頼義は前九年合戦を平定、さらに頼義の子・義家は後三年合戦を鎮めています。親子三代に渡って功績を挙げ、全国に武名をとどろかせた河内源氏でしたが、義家以降は一族の内紛が多発し、その地位は徐々に低落していきました。

義家の孫にあたる為義の頃には、河内源氏の立場は他の源氏諸流や平氏に押され気味で、為義自身も度々不祥事を起こすような始末でした。そのため京での評判は芳しくなかったようです。

東国での生活

幼少・青年期の義朝の事績ははっきりしていませんが、やがて東国へ下向し、合戦に明け暮れるようになります。

落日の河内源氏の威光をこの手で取り戻す!……という前向きな理由ではなく、どうやら義朝は何らかの理由で為義から廃嫡されていたようで、半ば追い出されるような形で東国に下ったようです。

当時、所領をめぐる武士団同士のトラブルが各地で頻発していました。義朝は東国でそうしたトラブルに積極的に介入・調停していきます。

廃嫡されたとはいえ、名門河内源氏の血を引く義朝は充分な武力とカリスマ性を有していたのでしょう。東国武士たちも義朝に紛争の調停者としての役割を期待してこれを受け入れ、義朝は彼らとの関係を強化することに成功します。

義朝と東国武士の結びつきは彼らの婚姻関係からも窺うことができます。相模国の武士・三浦義明の娘との間に長男・義平を、同じ相模国の武士・波多野義通(はたのよしみち)の妹との間には次男・朝長をもうけています。

義朝の躍進

嫡男・頼朝の誕生

義朝の三男・頼朝は久安3(1147)年に京で誕生しているので、それより前に義朝は上洛し、活動の場を京に移していたようです。

頼朝の母は熱田大宮司藤原委範(すえのり)の娘で、この一族は当時院政を行っていた鳥羽法皇やその周辺と深い関係を有していました。この婚姻の成立より、義朝は鳥羽院政の中枢にも接近できるようになったのです。

なお、廃嫡されて東国にいた義朝ですが、父・為義との関係は絶たれていなかったようで、その為義が仕える摂関家とも関係を保ち続けていました。

実力が物を言う武士社会でしたが、院や摂関家による権威的な後ろ盾も同様に重要でした。義朝はこうした権威も上手に活用して活動していたようです。

大出世と父との対立

仁平3(1153)年、義朝は従五位下に叙され、下野守に任じられました。鳥羽院の意向が働いたとされるこの人事で、父・為義以上の政治的地位を手に入れました。しかし、この大出世に前後して、義朝の周囲には不穏な空気が渦巻いていました。

当時の朝廷内部の関係は複雑で、摂関家と院近臣(いんのきんしん、院政を行う上皇・法皇の側近)とが激しく対立していました。仁平元(1151)年にその対立が決定的なものになると、摂関家サイドの為義と院近臣サイドの義朝も対立することになります。

先述した政治的地位の逆転も2人の間の溝をより深くしたことでしょう。久寿2(1156)年、義朝の長男・義平が、為義の子で義朝の弟にあたる義賢(よしかた)を武蔵国比企郡大蔵館で殺害します。これにより両者は完全に決裂することとなります。

保元の乱

保元元(1156)7月に鳥羽院が亡くなると、保元の乱が勃発。王家の皇位継承問題(後白河天皇 vs 崇徳上皇)や摂関家(藤原忠通 vs 忠実・頼長)の内紛、そして上述した院近臣と摂関家の対立など、様々な要因が重なり合って勃発した戦いでした。(※以下、保元の乱の対立構図)

◆ 上皇方

  • 崇徳上皇
  • 藤原頼長
  • 平忠正
  • 源為義
  • 源為朝

VS

◆ 天皇方

  • 後白河天皇
  • 藤原忠通
  • 平清盛
  • 源義朝

この戦いでは京で活動する様々な武士が動員され、その中で義朝と為義は敵として相対することになりました。合戦は義朝の属する後白河天皇側の勝利で決着し、その戦後処理で義朝は父・為義と弟らを自らの手で処刑することになります。

肉親を手にかける悲嘆か、自らを東国に追いやった恨みを晴らす充足感か……処刑に臨む義朝の胸中はどのようなものだったのでしょう。

義朝と清盛

乱後の論功行賞によって、義朝は右馬権頭(うまのごんのかみ)、続いて左馬頭(さまのかみ)に任じられます。高い政治的地位を手に入れ、さらに為義や弟らがいなくなったことで、義朝の河内源氏嫡流としての立場は確固たるものになりました。

なお、乱では伊勢平氏の平清盛も義朝と同じく後白河天皇側として参戦していました。それぞれ河内源氏と伊勢平氏の嫡流で同世代の2人。ドラマではライバル的な描かれ方をすることも多いですが、清盛が論功行賞で得た地位は義朝のそれよりもさらに高いものでした。

俗説では恩賞の差に義朝が強い不満を持ったことが後の平治の乱の要因となったとされますが、これは誤りです。清盛は早くから順調に出世を続けており、このとき既に上級貴族一歩手前の地位にいました。

一方、大きく躍進したとはいえ義朝は下級貴族レベルの地位だったので、恩賞に差があるのは当然でした。父祖の代から功績を挙げ続け、安定して出世を続けていた伊勢平氏の清盛と、不祥事の頻発で低迷していた河内源氏の義朝との間には、ライバルというには大きすぎる格差がありました。

平治の乱

保元の乱後、国政を主導したのは信西(藤原通憲)という人物でした。彼は後白河天皇の乳母夫(めのと、養育係である乳母の夫)として権威をふるい、乱後の政治改革を進めましたが、朝廷内の各所から反発を招いていました。

反信西派の中心となったのは後白河の寵臣で急速に昇進を重ねていた藤原信頼と、保元の乱で後白河側として活躍した源義朝でした。共に後白河側近だった2人は保元の乱以前から協力関係にあったようです。

平治元(1159)年12月9日、平治の乱が勃発。信頼と義朝の軍勢が信西を襲撃します。事前に襲撃を察知していた信西は脱出しますが、逃亡先で発見されて自害に追い込まれてしまいます。

信西とその一派を排除して権力を得た信頼により、義朝は播磨守に、嫡男の頼朝は従五位下右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に任じられます。官位的には院近臣の中でもトップクラスの地位を得たことになります。

頼朝も若干13歳にしては非常に高い地位でした。しかし、この栄光も長くは続きませんでした。

清盛の参戦と敗北

平治の乱には様々な貴族や武士が関与していましたが、彼らは反信西の目的で協調していただけだったので、信西の排斥が達成されたことでその関係は早くも瓦解しはじめます。権力を得た藤原信頼を追い落とそうとする動きが出てきたのです。

乱勃発時に京を留守にしていた平清盛が知らせを受けて帰京すると、信頼に敵対する貴族らと協力して天皇らを自らの保護下に置くことに成功します。天皇を自らの監視下に置くことで権力の正当性を確保していた信頼と義朝はこれによって一気に賊軍へと転落してしまいます。

12月26日、孤立した信頼・義朝の軍勢と官軍となった平氏軍が激突します。孤立していた上、畿内周辺に多くの家人を抱えていた清盛率いる平氏軍が相手では義朝軍に勝ち目はありませんでした。(※以下、平治の乱の対立構図)

◆ 信西方

  • 信西
  • 平清盛
  • 平重盛
  • 平経盛
  • など…

VS

◆ 藤原信頼方

  • 藤原信頼
  • 源義朝
  • 源義平
  • 源頼朝
  • など…

義朝の最期

敗走した信頼と義朝は逃亡を図ります。信頼はすぐに捕まり斬首されますが、義朝は3人の息子やわずかな郎等と共に東国を目指して落ち延びることを決めます。しかし逃避行の最中、雪山の中で三男・頼朝が一行とはぐれてしまいます。

若干13歳の頼朝に連戦の疲れと雪山の寒さは相当堪えたのかもしれません。義朝は頼朝が敵に捕まったと思い、嫡男を失った悲しみに涙をこぼしたといいます。

その後、長男・義平は甲斐・信濃両国で軍勢を集めて再起するために義朝と別れ、負傷していた次男・朝長は足手まといになることを嫌い、自ら望んで義朝に討たれます。

息子らと別れた義朝は、わずかな郎党と共に逃避行を続けますが、その道中で立ち寄った館にて、館の主の裏切りにあい、命を落とすのです。

野間大坊(愛知県知多郡美浜町野間)の境内にある源義朝の墓
義朝終焉の地、野間大坊(愛知県知多郡美浜町野間)の境内にある源義朝の墓(出所:wikipedia

義朝と別れた義平も途中で捕まり、斬首されたといいます。父を超え、河内源氏嫡流の地位を確立してからわずか3年で義朝の一族は壊滅してしまったのでした。

ただ、その血が絶えたわけではありませんでした。はぐれた頼朝ものちに平氏に捕まりますが、処刑を免れて伊豆国への配流で済んだことは有名です。また、義朝には先の3兄弟の他にも範頼や義経など多くの子がおり、幼少だった彼らはみな配流、もしくは出家という措置で生きながらえています。

義朝の死から20年の時を経て、河内源氏は再び歴史の表舞台に現れることになるのです。


【主な参考文献】
  • 川合康『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』(ミネルヴァ書房、2021年)
  • 元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(日本放送出版協会、2004年)
  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーラン ...

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