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【やさしい歴史用語解説】「町衆」
- 2022/12/25
京都の市街地は碁盤の目のような区割りがされていますから、地域ごとに自治組織が発達しやすい土壌がありました。しかし同時に京とは政治・経済・文化の中心地ですから、思わぬ災難に巻き込まれることもたびたびだったようです。
応仁元年(1467年)から11年続いた「応仁の乱」はその最たるもので、京都のほとんどが焼け野原となりました。ところが市街地は瞬く間に復興を遂げ、上京・下京を中心とするミニマムな新都市が完成するのです。これを主導したのが商工業者で成り立つ「町衆」の存在でした。
市中には町衆が運営する「町」が続々と生まれ、それぞれが自治組織として機能していきます。また意思や行動の統一を図るために「町掟(まちおきて)」も定められました。町の出入り口には木戸が設けられており、防御機能を高めると同時に治安維持にも心配りをしていたようです。
そういった町が寄せ集まって「町組」という大きな組織を作り、選ばれた町衆による合議によって運営・統括されたといいます。長らく途絶えていた祇園祭が復活したのも、町衆たちの尽力によるものでした。
ところが町衆たちのパワーは、同時にトラブルを生む可能性をはらんでいたのです。町衆たちの多くは法華宗(日蓮宗)に帰依していたのですが、当時勢いを増していた一向一揆との反目が始まります。幕府管領・細川晴元と結びついた法華衆(町衆)は、山科本願寺を焼き討ちにして気勢を上げました。
そこまでは良いのですが、比叡山延暦寺に対してもケンカを吹っ掛けてしまうのです。怒った延暦寺は武力を背景に脅しを掛け、多額の上納金を払うよう迫ります。法華衆側がこれを拒否したことにより、ついに延暦寺は武力行使に出ました。近江の六角氏と語らって大軍を繰り出し、法華宗寺院どころか京都の市街地を焼き討ちにしたのです。
せっかく復興が成った町もほとんどが焼けてしまい、多くの民衆が命を落としたといいます。
そんな戦いの惨禍にめげず、その直後から町衆たちは足利将軍のもとへ年賀に出向くなど、積極的な活動をしています。個々の力は弱くとも、団結することで大きなパワーに変えていたのでしょう。
室町時代に上京・下京5つずつあった町組ですが、江戸時代になると市街の発展に伴って新しい町が成立していきました。それらの町を新たに町組へ加入させるとともに、町組全体の再編が行われていきます。最終的に上京12組、下京8組にまで増え、現在見られる京都の町並みを形作ったのです。
そして明治2年(1869年)になると従来の町組が改められ、上京・下京合わせて65組に再編されました。この時点での町組が、小学校を単位とした地域「元学区」に繋がっています。
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