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【やさしい歴史用語解説】「茶の湯」
- 2022/12/08
その起源は古代中国の神話まで遡り、医術や農耕などを司った三皇五帝の一人、「神農大帝」だとされています。さまざまな野草を食した中で毒にあたってしまい、解毒のために飲んだのが「茶」だったとも。当時の茶は飲むものではなく食べるものだったそうで、あくまで薬として用いられていました。
中国では漢代に日常的に茶が飲まれるようになり、日本へ入ってきたのが平安時代中期のことでした。最澄や空海らが唐へ渡り、日本に戻ってきた時に唐の茶を持って帰ってきたそうです。 とはいえ日本で茶の習慣は根付くことなく、いつしか忘れ去られていきました。
次に日本へ茶が持ち込まれたのは鎌倉時代のことです。臨済宗を創始した栄西が宋の茶を伝えたのですが、嗜好品ではなく、やはり薬として重宝していました。
さらに時代は下って南北朝期に入ると、一堂に集まって茶の本非を当てる闘茶が流行しました。本非とは飲んだうえで茶の品種を当てる遊びのことです。
やがて室町時代中期には書院造りが公家や武家の住宅として普及し、茶会が書院の広間で行われるようになりました。また中国からの舶来品である「唐物」を飾りや道具に用いるようになり、徐々に茶の湯の様式が完成していきます。
特に村田珠光は幕府同朋衆だった能阿弥から書院茶を学び、地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れました。さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味したうえで、精神的かつ芸術的内容を持った茶の湯を作り出したのです。
珠光が亡くなったあと、その遺志を引き継いだのが武野紹鴎でした。
従来からの唐物の代わりに日常で用いる陶器を茶の湯に取り入れ、「わび茶」と呼ばれる様式を完成させます。これまで単なる儀式・作法でしかなかった茶の湯ですが、紹鴎によって「わび」の精神を持った「道」へと昇華していきました。
そして現在まで連綿と受け継がれる茶の湯を完成させたのが、紹鴎の弟子でもあった千利休です。
それはわび茶を哲学的思考で表現し、遊びの要素を拭い去った上で、人同士の心の交流を目指した茶の湯でした。大名茶と表現されるいっぽうで、究極の美の精神を追求したと言えるかも知れません。
また諸大名をはじめ、一般大衆が茶の湯を楽しむようになりました。利休によって茶の湯が身近な存在になったと言えるでしょう。
千利休の死後、その子孫たちはそれぞれに流派を創始しています。「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」という三千家が現在では知られていますね。
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