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【やさしい歴史用語解説】「刈田狼藉」

歴史の授業の中で、中世に頻繁に起こった出来事として記載されているのが「刈田狼藉(かりたろうぜき)」という行為です。直訳すれば「田んぼの稲を刈り取って乱暴に振舞う」という意味になるでしょうか。

この言葉こそ、中世日本の特徴を大きく示す指標となっていますね。刈田狼藉といっても鎌倉時代のもの、そして室町~戦国時代のものと2通りの意味があります。

まずは鎌倉時代の刈田狼藉を見ていきましょう。

そもそも刈田じたいは平安時代から起こっていて、その土地に正当な権限をもつと称し、他人が持っている土地の作物を実力で刈り取る行為を指します。当時は農耕地も少なく、限られた田畑をめぐって争いが絶えない時代でした。

鎌倉時代に入り、承久3年(1221年)に起こった承久の乱で朝廷側が敗れたことにより、皇室領や公家領など多くの荘園が没収されています。また没収されなくても鎌倉幕府が派遣した地頭を受け入れざるを得ませんでした。

地頭というのは年貢の収公業務をする代わりに、およそ4割を収益とする土地管理官のこと。主に東国の御家人たちが大量に西日本へ移って地頭になっています。

ところが天候によって作柄が安定しない時代です。もし不作だった場合、地頭たちは自分たちの権利を主張して勝手に稲を刈り取る行為に出ました。これを刈田・刈畠と呼びますが、土地に関する権利は非常にシビアです。たびたび訴訟沙汰となって処罰の対象になっていました。

やがて室町時代になると、守護大名の権力が大きくなり、荘園を勝手に横領するといったケースも増えてきます。あるいは刈田狼藉の検断権を使って土地問題に介入していきました。

検断権とはいわゆる裁判権のことで、もちろん実力行使を伴う行為です。こうして守護大名は国内の武士や荘園の荘官などを自らの影響下に収めていきました。

戦国時代に入ると荘園制度や守護領国制が崩壊し、各地の勢力が利害関係を伴って争う時代となります。戦国大名たちは兵糧の調達と称し、敵領の稲や作物を刈り取る行為に出ました。敵の兵糧を奪うという意味もあり、刈田狼藉は広くおこなわれたそうです。

有名な記録としては、徳川家康の家臣・松平家忠が書いた『家忠日記』がありますね。

天正6年(1578年)8月、徳川軍が西駿河の田中へ刈田のため出動。家忠らは警戒するために物見に出ています。当時の田中城は武田方の城ですから、事前に稲を刈り取ることで抵抗力を弱めようとしたのでしょう。

戦国時代の戦いでは、兵糧は個々で持参するか現地調達が原則でした。敵方の食糧を奪うことも織り込み済みだったわけですね。あの上杉謙信も関東へ幾度となく出兵していますが、冬の時期に集中していることが特徴です。なぜなら収穫が終わった冬ならば、大量の食糧が備蓄されていますから。

また、近年の研究では、雪国越後での口減らしと、関東での食糧確保が目的だったとされています。

しかし刈田狼藉や乱妨取りといった略奪行為は、戦国大名にとって表裏一体のものでした。新しく領地にしたい土地を荒廃させてしまっては元も子もないからです。そのため、禁制がたびたび出されては、刈田や略奪が禁止されたとか。こうして刈田狼藉は徐々に姿を消していきました。

※秋の収穫(wikipediaより)
※秋の収穫(wikipediaより)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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