清少納言と紫式部の言霊!? 歴史上にも明らかな、日本語に秘められた絶大なる力とは

 いま現在の日本語には、かつて飛鳥時代の仏教伝来によってもたらされた経典から抜き出された言葉や言いまわしが、決して少なくありません。「丁寧な言葉遣いでの日常会話は、お経をとなえているに等しい」と説く偉い僧侶方々も、宗派を超えて大勢いらっしゃいます。

 今回は、そんな日本語を駆使することで歴史に名を刻んだ大和撫子たちに焦点を絞って、言霊の不思議とともに日本語が持っている是非ともの絶大なる力をながめてみましょう。

清少納言と智恵子にまつわる私の魂の言霊

 『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際・・・』と聞けば、いにしえの平安の都の朝焼けの天空に想いを馳せる方々も少なくないかとは思いながらも、ふと私は、「東京には空が無い」とつぶやいた、あどけない智恵子さんを思い出してしまうのです。

 私が初めて高村光太郎の愛妻・智恵子の存在を知ったのは高校時代の授業中、現代国語の女性教師が『智恵子抄』のなかの《あどけない話》という詩を朗読したときでした。

 読み終えた教師が、さも得意げに、「この高村智恵子という女性は、気がふれていたのよ」と言った瞬間、私の脳裏に《ウソだ!》という声が響いたのを鮮明に記憶しています。

 それから数十年のちの昨今には、箱入りの『智恵子抄』愛蔵版を、たまたま手に入れたものですから、あらためて高校時代に聴いた言霊のナゾを解き明かしてみようと思いついた次第です。もう30年近く真言密教を信仰しながら学んだ仏教思想と、日本仏教にも深く影響していると思われるインド哲学の知識をもとに、私の思い出の謎に迫ってみましょう。

紫式部の日記がヤバすぎる!

 紫式部が幼いころに母親が他界、姉も早世しており、寂しい少女時代だったようです。

 彼女は、当時としては晩婚だったそうで、親子ほど年上の又従兄弟で子連れの藤原宣孝と結婚して女児1人を産みましたが、結婚生活は約3年ほどで夫も世を去っています。

 どうやら、初老で子持ちの未亡人になってから『源氏物語』を書き始めたのだとか。

 このころ清少納言は宮中で皇后・定子に仕えており、『枕草子』を書き終えてからは、都の著名人ともなりました。しかし、それから4~5年後の暮れに定子が2度目の出産した直後に崩御し、清少納言は平安御所を去り、そのあとの消息は不明です。

 その後、間もなく第2皇后である彰子の皇女の家庭教師として召し抱えられたのが紫式部だったのです。宮仕えとなった紫式部は、宮中での見聞録つまり『源氏物語』執筆のための取材メモとも言っていい日記をしたため始めておりました。

 これが、後世世には『紫式部日記』として、平安御所を知るための資料ともなったのです。

 その、ごく一部分を抜粋し、私が意訳しておきましょう。

清少納言は、さも得意げな顔して、とっても偉そうにしてました。(中略)自分は特別に優れていると思ってる人は、必ず見劣りするし、将来は悪くなるばかりですので云々…
『紫式部日記』より筆者意訳

と、まるで観察していたかのように悪口雑言を書き連ね、ついには

その誠実でなくなった人の最期は、どうして良いことになりましょうか。
『紫式部日記』より筆者意訳

とまで明記しています。

 まるで自身が観察しながらの書きっぷりですが、4~5年前に宮仕えを辞して去って以降の清少納言は消息不明ですから、紫式部が自らの目と耳で見聞したハズはありません。つまり自分とは無関係な人を、ここまで貶めて誹謗中傷するとは、どういう神経でしょう。

 そこで2人それぞれの半生を調べてみますと、清少納言の前半生すべてが、紫式部の半生よりも圧倒的な幸福と栄誉に恵まれているのです。

 さらに言えば、『枕草子』は完成していて世の評判も上々ですが、紫式部は『源氏物語』を書き始めたばかりの、いわば作家志望の未亡人という初老女性ではないですか。

 ここからは私なりの私感でして、紫式部ファンには怒られるでしょうが、どうも紫式部という女性は、まあ、作家には珍しくもない妄想癖あるいは虚言癖を持っていたのでは?!

 清少納言を憎んでいたというより、あまりにも恵まれた彼女の半生を自身のそれと比較し、どうしようもない嫉妬心に苛まれては、自身が抱かれてみたい光源氏を妄想しつつ夜ごと自慰しながら、自身が望む華麗かつドラマチックな人生をも重ねて書き上げたのが、すなわち『源氏物語』ではないのか?!

 そのように推理・解釈する根拠の1つとしては、最後の最後に登場する《浮舟》こそが、じつは紫式部自身で、浮舟の決心は、ついに脱稿した当時の紫式部自身の願望ではなかったか?!という、読後の私の感想です。

清少納言と紫式部の輪廻転生を想像してみよう

 この世に生まれた生物すべては、必ず生まれ変わり死に変わりして六道輪廻を巡りつづける!と説かれますが、これは仏教思想ですから、キリスト教徒など他宗教を信仰している方々には通じないことでしょう。

 しかし、今回のツアーで私がお伝えしたいのは、話せば分かる人々すべてに通じる、言うなれば文字と言葉が持つ力によります《知性の輪廻転生》なのです。

 今回は、もちろん紫式部が日記に綴った文字と言葉と知性による清少納言の輪廻転生です。平安御所を去って消息不明となった清少納言は、紫式部の日記によって、なんと鎌倉時代の人々の脳裏に《鬼の如くなる形の女法師》として転生しました。

 それは、鎌倉初期に書かれた『古事談』という説話集に綴られた清少納言です。彼女には、清原致信という兄がいたことは確かで、兄の家に身を寄せていたある日に、致信を仇とする源頼親が率いる20名前後の一団に襲撃されて討たれたのだとか。

 仇を討ち、女性と判別できず清少納言にも襲いかかろうとした男たちの前で、彼女は半裸となって陰部をさらして見せつけながら命乞いした!ということにされています。

 ことに平安~室町時代には、才能ある女性は身を滅ぼすなどと言われた世相だったらしいのですが、いにしえの平安京の現実世界を自身の五感で眺めながら、美しく流暢な言葉で書き留めた清少納言よりも、それを扱きおろした悪口雑言のほうがウケる様子は、現在も同様みたいですから、いっそ人間道ならではの宿命なのでしょうか?!

 こうしたあたりが、かつて高校時代の現国教師に対して、私の魂が《ウソだ!》と叫んだことにも繋がるようです。現代国語の女性教師が、まるで智恵子を蔑むかのように言った言葉を、咄嗟に私の魂が否定したとき、まだ私は智恵子について何も知らなかったのです。

 むしろ興味が湧いたものですから調べてみれば、いま現在の福島県二本松市油井で酒造業を営む両親の長女として生まれ育ち、当時の高等女学校も最優秀で卒業しては、日本女子大学校に合格して上京。やがて新進気鋭の画家となり、若き女性芸術家として注目されたころ、永久の伴侶となる光太郎と出会いますが、実家の破産・一家離散・自身の病弱など度重なる不幸のうちに統合失調症を発症し、自殺未遂までしたのちに結婚したのです。

 療養のため、精神病院とは名ばかりで患者の自由を確保しているゼームス坂病院に入り、光太郎の献身的看護のもと、まこと美しき千数百もの紙絵を創作しましたが、持病の粟粒性肺結核によって眠るように世を去ったのだとか。数えで享年53。

まとめ

《あどけない話》のなかで智恵子が、自分のほんとの空だといった阿多多羅山の上の青空を光太郎といっしょにながめながら、『春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際、少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる』とつぶやく智恵子を想いつつ、さようなら。


【主な参考文献】
  • 未木文美士『日本仏教史ー思想史としてのアプローチ』(新潮社、1996年)
  • 佐藤信 編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(筑摩書房、2018年)
  • 紫式部『紫式部日記』
  • 清少納言『枕草子』
  • 高村光太郎『智恵子抄』

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  この記事を書いた人
菅 靖匡 さん
2004年、第10回歴史群像大賞優秀賞を受賞し、 2005年に『小説 大谷吉継』でデビュー。 以後『小説 本多平八郎』『小説 織田有楽斎』(学研M文庫)と、 さらに2011年から『天保冷や酒侍』シリーズなど、 フィクションのエンタテイメントにも挑戦している。 2020年には『DEAR EI ...

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