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  • 毛利元就
 2019/07/31

「有田中井手の戦い(1517年)」毛利元就の初陣!大内氏に一目置かれる存在に

武田元繁の討死の地
武田元繁の討死の地

中国の覇者として知られる戦国武将・毛利元就。ですが、意外と歴史の表舞台に登場するのは遅かったことをご存知でしょうか。元就の名の初見は、永正14(1517)年の有田中井手(ありたなかいで)の戦い(有田合戦とも)でした。時に元就21歳、これが初陣でした。

武将の多くが元服後の十代半ばごろに初陣を果たすことを思うと、あれ……意外と遅い?と思うかもしれません。しかし、元就はこの初陣でしっかり役割を果たし、見事名声を得たのです。

「西の桶狭間」とも呼ばれるこの戦い、どのような戦だったのか、まずは発端から見ていきましょう。
(文=東 滋実)

事のはじまりは武田元繫の謀反

大内と尼子の力関係

当時、中国地方は代々守護の家系である大内氏と、出雲守護代から戦国武将へ転身した勢力・尼子氏がせめぎ合っていました。両者のはざまに位置する安芸の国人領主であった毛利氏は、常に大内と尼子の力関係を見ながら今日はこっちにつくか、明日はどっちか……と生き延びるためにあっちへこっちへと情勢を見て動かねばならず、身の振り方はとても難しい時代でした。

大内義興は養女を武田元繫の妻に

大内・尼子両氏の勢いは、鎌倉時代以来の名門・安芸武田氏もかすんでしまうほど。安芸武田氏はすでに守護から分郡守護に落ちており、当主で佐東銀山城主の武田元繫は大内の勢力下にありました。

山陰を本拠とする尼子氏の南下の勢いは激しくなっており、将軍・足利義稙を奉じて上洛していた大内義興は不安を抱きます。すでに安芸では尼子の策略による抗争が多発していたのです。そこで義興は元繫に鎮圧を任せることにし、彼に自身の養女(飛鳥井雅俊女)を娶らせて帰国させました。これは永正12(1515)年のことと思われます。

大内氏当主・大内義興の肖像画
大内氏当主・大内義興の肖像画

安芸守護職としての力を取り戻したかった元繫

ところが、元繫は大内の主力不在を好機とみて、武田氏の勢力拡大を図るのです。義興の養女である妻・飛鳥井雅俊女とは離縁。かわりに、勢いのある尼子氏の娘(経久の弟・久幸の娘)を妻にし、尼子の力を借りることに。

そうしてにわかに勢いづいた元繫は厳島神社の神領を侵し、さらに己斐城(現在の広島市西区)を攻めました。この際、毛利興元と吉川元経は義興から後巻(うしろまき/逆包囲のこと)を命じられ、武田方の山県郡にあった有田城(現在の北広島町)を落としたのです。この城はもともと吉川氏のものであったため、元経に与えられ、その勢力下にある小田信忠が城主につきました。

毛利家では突如、当主の興元が急死

元繫は己斐城の包囲を中断させられ、さらには有田城までをも奪われたわけですから、当然今度は毛利・吉川に矛先を向けます。

有田城陥落の当時、毛利の当主は元就の兄・興元でしたが、永正13(1516)年に急死してしまいます。25歳での早死には、酒のせいだと言われています。

元就の兄・毛利興元の肖像画
元就の兄・毛利興元の肖像画

そこで次に当主に立ったのが、わずか2歳の嫡男・幸松丸(こうまつまる)です。当然当主としての役割を果たせるはずもなく、興元の弟である元就が後見を務めることに。興元の死は、毛利の隙を狙う元繫にとっては願ってもないチャンスだったのです。

武田勢が有田城を包囲

元繫はこの興元急死による毛利家の混乱と、確固たる当主がいない隙を好機と見たのでしょう。興元の死からわずか1年、永正14(1517)年10月3日、元繫は近隣の豪族に呼び掛け、味方に組み入れた三入高松城主の熊谷元直、八木城主の香川行景、己斐城の己斐宗端ら4000余騎(5000余とも)を引き連れ、有田城を包囲したのです。

それに対して毛利・吉川勢の戦力はわずか数百。義興はこの窮地に、周辺の竹原小早川氏や平賀氏、天野氏らにも参陣を要請しましたが、動かず……。結果、数倍もの敵と戦ったのは毛利と吉川だけでした。

有田中井手の戦いの要所マップ。色が濃い部分は安芸国。青マーカーは大内方の城、赤は武田方。

毛利・吉川軍による奇襲攻撃

10月22日、毛利と吉川の連合軍は、武田本陣に奇襲攻撃を仕掛けます。奇襲をかけたのは猿掛城から出陣した毛利元就の隊だったといわれています。これに熊谷元直が率いる武田の本陣は不意を突かれた形になり、主力の兵を多数失うことになりました。前線で戦っていた元直も矢に当たって亡くなり、将が不在となった武田軍は一気に勢いを失ってしまいます。

これを知った元繫、今度は自身が指揮をとり、一時は毛利・吉川連合軍を追い詰めるところまで勢いを取り戻しますが、元繫は勢い余って前に出過ぎてしまったのでしょう。最前線まで出た元繫は流れ矢に当たって命を落とします。

大将を失った武田軍は敗走。翌日には己斐氏、香川氏が毛利軍を攻撃しますが、これも討ち死に。武田勢力はこの戦いで一気に主力を失い、以降弱体化の一途をたどることになります。奇しくも、のちに武田氏の息の根をとめることになるのも毛利でした。

元就、名をあげる

元就が指揮をとったように言われるものの……

この戦い、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長今川義元の戦い「桶狭間の戦い」になぞらえることがあります。元就にとってももちろん今後の躍進に一役買った勝利であることは間違いないのですが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありませんでした。

毛利の当主である幸松丸はもちろん出陣はしていませんでしたが、主力となったのは毛利家譜代の旗本である国司、児玉、三戸らでした。当時「多治比殿」と呼ばれていた元就は、毛利本家の勢力に加わった形だったのです。

大内義興にも一目置かれる

とはいえ、元就が初陣にもかかわらず素晴らしい働きをしたことにはかわりありません。毛利の一家臣に過ぎなかった元就は、この戦いではじめて大内義興に存在を知られることになります。京にいた義興は元就の働きぶりを聞き、「多治比のこと神妙」という感状を与えています。相手が旧安芸守護の名門・武田氏であったことも大きいでしょう。

これで名声をあげた元就は、以後の戦いでもさらに勢いを増していくことになるのです。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)




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