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新撰組の内部抗争・油小路事件の現場とは?
- 2022/12/25
幕末、新選組は何度か内部抗争を起こしています。油小路事件(あぶらのこうじじけん)もそのひとつ。油小路事件は、慶応3年11月18日(12月13日)に起きた新選組最後の内部抗争になります。この後鳥羽伏見の戦いが起こり、激動の時代へと突入することになるのです。
一体どのような事件だったのでしょうか。今も多くの幕末ファン・新選組ファンが訪れている、事件の現場となった本光寺もあわせてご紹介していきたいと思います。
一体どのような事件だったのでしょうか。今も多くの幕末ファン・新選組ファンが訪れている、事件の現場となった本光寺もあわせてご紹介していきたいと思います。
【目次】
事件までの流れ・伊東甲子太郎の加入と離脱
伊東甲子太郎は新選組に後から加入した隊士。参謀兼文学師範という重職に就きました。新選組は池田屋事件で一躍有名になり、予算も与えられており規模を拡大するために隊士を多く募っていて、その中での加入であったと言われています。しかし伊東甲子太郎は局長・近藤勇や副長・土方歳三をはじめ初期メンバーとは思想が異なり、すぐにすれ違いが起こります。そこで伊東は思想を同じくする伊東派の隊士と「御陵衛士」という団体をつくり、新選組から離反することに成功しました。
表向きは御陵衛士は円満離脱というようなかたちをとりましたが、新選組との関係は悪化していました。近藤勇の暗殺を計画していたという説もあり、それが事件のきっかけになったとも言われていますが、裏付けるものはまだ見つかっていません。
油小路事件当日
伊東甲子太郎の暗殺
慶応3年11月18日(12月13日)、近藤勇は「国事に関する話がある」と伊東甲子太郎をよびだします。伊東は怪しみながらも、場所が近藤の妾宅であったことや、ここまで堂々と暗殺などはされないだろうという思いから、素直に出向いていきました。そこには副長・土方など他の新選組メンバーもそろっており、宴会になり伊東は足元がふらつくまで酒を飲まされたといいます。その帰路、伊東甲子太郎は新選組隊士・大石鍬次郎らの待ち伏せにあい、襲われて重傷を負います。伊東は瀕死ながらも敵に一太刀を浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで本光寺前で絶命しました。
油小路の変
ここまでなら伊東甲子太郎暗殺事件ですが、新選組は裏切り者である御陵衛士を全滅させるべく策を練っていました。本光寺前で亡くなった伊東の遺体は、七条油小路の辻に運ばれて放置されたといいます。一報を受けた御陵衛士たちが亡骸を引き取りに来たところ、さらに新選組の待ち伏せ部隊に取り囲まれて乱闘になったといいます。
完全武装の新選組に対し、遺体を引き取りに来た御陵衛士は数でも装備でも戦闘には不利な状況でした。数名が殺害され、数人が逃げ延びることに成功しましたが、伊東はじめ中心メンバーが死亡してしまったためここで御陵衛士は解散となります。
油小路事件に加わったのは誰?
油小路事件では、御陵衛士側は藤堂平助・服部武雄・毛内有之助の3名が討死し、4名が逃走に成功しました。この一人、藤堂平助は結成時から新選組に加入しており8番隊隊長も務めた人物。そのため新選組、とくに近藤勇の意図としては逃がそうと試みたと言われていますが、末端の隊士まではその意図がいきわたらず斬られてしまったようです。また、服部武雄は最後まで奮戦しましたが原田左之助の槍に倒れたといいます。
この日出動した新選組隊士は、なんと40~50名という説もあります。
御陵衛士を討ち取るために、かなりの大がかりな策で、新選組の本気度がうかがえます。まさに一網打尽にしようとしていたようですね。
油小路事件の後
逃げ延びた御陵衛士メンバーは薩摩藩邸に匿われ、新選組への恨みを募らせ、翌月近藤勇を襲撃。命までは奪えなかったもののけがを負わすことには成功しました。その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加し、新政府軍として戦いました。また、この時伊東を斬った新選組隊士・大石鍬次郎は、その罪により明治以降に死罪に処されています。坂本龍馬暗殺の嫌疑もかかっていたとのことですが、遺恨が残る後味の悪い事件ですね。
現場となった本光寺を訪れる
伊東甲子太郎が死亡した場所は本光寺というお寺の前でした。本光寺は”日蓮宗”のお寺です。門前には「伊藤甲子太郎外数名殉難之跡」という石碑があります。
境内を少し入ると、伊東甲子太郎が寄りかかって亡くなったと言われている石塔が今でものこっていて、これはなんと当時からあるものだとか。
全国から伊東甲子太郎&新選組ファンが訪れ、手を合わせるという本光寺。
御朱印にも工夫が凝らされていて、毎月変わるというデザインや猫をモチーフとしたスタンプなどがかわいくとても人気があり、今は明るく人が絶えない場所です。
まとめ:新選組の本気が伺える油小路事件
油小路事件についてまとめてきました。新選組は勢力を拡大するために隊士を募りましたが、その結果伊東甲子太郎一派という離反因子をつくりあげてしまい、結局は大規模な暗殺事件・斬り合いになってしまいました。新選組の出動した隊士の数からも、かなり本気で御陵衛士を潰そうとしていた意思が感じられます。
また、その後近藤勇は襲撃されその傷が元で鳥羽伏見の戦いという重要な戦いで十分に戦うことはできませんでした。伊東一派が本当に近藤暗殺を企てていたのか、そして離脱には本当はどのような意味があったのか、今となっては謎のままです。
情勢が常に変わり続ける幕末の時代において、どちらにとっても難しい判断でもあったかもしれません。しかし、もしこういった事件がなく新選組が団結していれば鳥羽伏見の戦いにおいて何か少し変わっていたのかも?とも思えてしまいますね。
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