「第一次月山富田城の戦い(1542-43年)」大内の敗北で、元就は命からがら逃げのびる

吉田郡山城の戦い(1540~41)で、見事尼子の大軍に勝利した毛利元就。そのおかげで尼子の勢力は弱まり、反対に大内が力をつけ始めます。大内義隆による出雲遠征も、吉田郡山城の戦いでの勝利がひとつのきっかけになりました。

しかし、すべて勢い任せでどうにかなるものでもなく……出雲遠征での第一次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いは失敗に終わってしまいます。

大内氏による出雲遠征のきっかけ

吉田郡山城での勝利の勢いのままに

大内義隆が出雲遠征を決定したきっかけのひとつが、吉田郡山城の戦いでの勝利でした。

尼子詮久は大内に転じた裏切り者の毛利元就の討伐のために吉田郡山城を攻めましたが、元就の奮闘・大内の援軍により失敗。そのまま出雲へ逃げ帰ってしまいました。

これにより、尼子氏に属していた石見・安芸・備後の国人領主たちの一部は大内氏に鞍替えし、尼子と大内の力関係が変わり始めます。勢いづいた大内義隆は、この機に尼子をたたくことを決定。吉田郡山城の戦いで救援に向かった陶晴賢(当時は陶隆房)も、そのときに尼子を討つことができなかったためか、出雲遠征を義隆に勧めたといいます。

大内義隆の肖像画
西国随一の戦国大名だった大内義隆。毛利元就もその傘下に入っていた。

尼子経久の死

また、尼子経久が天文10年(1541)に亡くなったことも、大内にとっては追い風になりました。尼子の家督はすでに嫡孫である詮久に譲っていましたが、まだ5年程度しか経過しておらず……。大内との戦いが続くさなかの経久の死は国人領主たちが不安を抱くのは当然の流れでした。

尼子から離れて大内に属した国人領主たちは、また尼子が勢力を盛り返すことを恐れてか、「はやく尼子を討ってほしい」と大内に訴えかけていたとか。新参者の彼らにしてみると、合戦で手柄をとって大内に認められるチャンスでもあったのです。

大内家臣は反対するも

吉田郡山城の戦いで大内義隆自身も出陣するつもりがあったようで、そこで尼子にとどめをさせなかったことはかなり気になっていたのでしょう。義隆自身、出雲遠征に前向きな気持ちで軍議を開きます。

武断派の陶隆房らは出雲遠征に賛成し、「この勢いを止めてはならない」と主張します。が、文治派の相良武任(さがらたけとう)や冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)らは遠征に反対。「勢いに任せれば尼子のように失敗する可能性があるため、まずは猛進するよりも一歩一歩迫るべき」と主張し、国人領主らを引き入れるところから始めるべきである、と説得します。

長期的にみれば文治派の戦略のほうが確実であることから一時は長期戦略が採用されますが、義隆の気持ちはすでに遠征に傾き切っていたのでしょう。強引に遠征が進められることになりました。大内家中での陶隆房の発言権も大きかったと思われます。

赤穴を落とすまでにおよそ半年

大内義隆自らが総大将として山口を出発

天文11年(1542)1月11日。大内義隆は自ら総大将となり、長男の晴持(義嗣子)、その他叔父の大内輝弘、家臣の陶隆房、杉重矩(しげのり)ら総勢1万5千の軍勢を引き連れて山口を出発します。その足で19日には厳島神社へ渡り、戦勝祈願をしました。

安芸では毛利元就をはじめ、宍戸隆家や吉川興経、小早川正平らの国人領主たちも合流し、最終的には4万を超える大軍になっています。元就は嫡男・隆元とともに参加しました。

赤穴城の攻撃に約2か月を要す

4月にようやく出雲へ入った大内勢はまず、出雲、備後、石見の境に位置する重要な拠点・赤穴(あかな)城を攻撃します。まずは熊谷直続が攻撃を命じられますが、あえなく失敗。直続はここで討死してしまいます。

7月27日、今度は陶隆房、平賀隆宗、吉川興経らで総攻撃。ここで赤穴光清が討死すると、赤穴勢は一気に勢いを失い、ようやく開城。赤穴城攻めが始まったのは6月上旬であり、陥落までおよそ2か月も要しています。

すでに山口出発から半年以上、出雲遠征が一筋縄ではいかない様子がすでに見えます。

月山富田城攻撃は難航

大内陣営で陶家臣と毛利元就の意見が対立

10月に入って大内軍は本陣を三刀屋峯に移し、年が明けて天文12年(1543)正月に宍道の畦地山へ。ここで軍議を開きますが、大内陣営内で力攻め派と持久戦派とに意見が分かれてしまいます。

とくに、陶隆房の重臣である田子兵庫助と、毛利元就が真っ向から対立。田子兵庫は「富田のすぐそばに京羅木山があるから、この山に本陣を置いて富田城を一気に攻めるのがよい」と強攻策を主張します。

一方、元就は「尼子はまだ力を温存しているから、まずは遠く離れたところに陣を据えて周辺の国人領主の調略から進めるべきである。そうすれば尼子は孤立して敗北するだろう」と主張。武力で一気にたたくよりも、調略でゆっくりじわじわと真綿で首を絞めるように戦う、いかにも元就らしい戦法です。

元就は再三持久戦にすべきと訴えますが、結局は陶隆房側の意見が採用されてしまいました。大内家中では譜代の重臣である陶隆房の信任がとくに厚く、下っ端の外様に過ぎない元就の意見は軽く退けられたのです。大内の求めに応じて従軍した元就はこの決定に従うほかなく、かなり歯がゆい思いをしたことでしょう。

第一次月山富田城の戦いの要所マップ。色が濃い部分は出雲国。青マーカーは大内方の城、赤は尼子方。

攻防戦では寝返る武将が続出

3月、京羅木山に本陣を移した大内軍は攻撃を開始します。

当初は圧倒的な戦力の大内方に有利に進みますが、城攻めは難航します。攻防戦は長期化し、4月末には大内方についたはずの三刀屋久扶(みとやひさすけ)、三沢為清、本城常光らが再度寝返り、尼子方に転じます。この中には、元就が大内との関係を取り持った吉川興経もいました。

一度は大内に属した彼らが裏切り逃げ出したのは、なかなか富田城を落とせない大内勢に不安を抱いたというのもあるでしょう。大内のふがいなさが招いた結果でした。そもそも富田城攻めに難航するのは当然。中国地方でほかに類を見ない名城であり、攻撃には苦労する城だったのです。それを力攻めの策で押し切ったのは考えが足りなかったのか……。

寝返る武将が続出したことで、大内の包囲網は崩れてしまいました。さらに、補給路が経たれたことで大内にとって不利な状況になります。力攻めで突き進んできた大内はすでに奥深くまで侵入しており、このままいけば退路まで断たれてしまう。すでに危険な状況に陥っていました。

大内軍は敗走し、元就は窮地に陥る

大内義隆は5月7日に全軍撤退を決定し、それぞれの隊は別の経路で撤退することに。これは退路を妨害することを恐れてのものでしたが、やはり無事では済まなかった隊もちらほら。特に悲惨だったのが、海路をとった大内晴持でした。我先にと舟に乗り込む兵が殺到し、小舟が転覆。晴持はそこで溺死してしまいました。友軍であった小早川正平も伏兵にあって戦死しています。

殿を務めた元就の隊はさらに過酷な状況に置かれていました。元就・隆元親子は尼子軍に追われながらも必死に逃げて出雲から石見に入りますが、出雲と石見の国境に位置する石見大江坂七曲という場所で尼子軍に追いつかれます。ここで毛利配下の多数の将兵が討死し、元就自身やっとのことで逃れたのです。

元就家臣・渡辺通の献身

石見大江坂七曲にて、元就はなぜ逃げおおせることができたのか。それは家臣・渡辺通の献身の賜物でした。尼子軍に追いつかれた際、渡辺通が元就の甲冑をつけて身代わりとなって戦い、見事討死したのです。

元就が影武者になるよう命じたのか、渡辺通が自ら身代わりになることを買って出たのかは不明ですが、結果見事元就は逃げのびることができました。身代わりになった通は元就の甲冑を身につけて元就の馬に乗り、尼子軍を引きつけて壮絶な最期を迎えたといいます。そのほか、多数の家臣が通とともに残り、囮となって戦死しました。

元就は渡辺通の献身を忘れず、彼の遺児を別格扱いにしています。毛利家では正月の甲冑開きの儀式を代々渡辺通の子孫に任せ、それは江戸時代に入っても続きました。元就最大の窮地を救った忠臣への恩を忘れず、語り継がせたのです。

敗北した大内は以後、弱体化の一途をたどる

さて、出雲遠征に失敗して山口へ逃げ帰った義隆。かれは石見路を通って無事逃れることができました。文治派の意見を退けて遠征を強行し、月山富田城攻めに失敗した義隆は、以後文治派の相良武任らを重用するようになります。そしてそれまで重用されていた武断派の陶隆房らとは対立することに。

義隆にとって敗北はもちろんのこと、義嗣子である晴持を失ったことがかなり響いたようです。晴持は義隆の姉の子で、公家・一条家の血を引いていました。美しい容貌で、和歌や管弦、蹴鞠の才に秀でていたという晴持。文化的関心が強く、宮廷文化人との交流もあった義隆は晴持をとてもかわいがったといわれています。晴持は没後に、義隆の働きかけによって足利将軍家の通字である「義」の字を賜り、義房の名を追贈されています。

大切な息子の死で意気消沈した義隆は以後政治や戦への関心を失い、公家の人々と遊び耽るようになります。
重臣・陶隆房はこういった義隆の態度に大内家の今後を案じるのと同時に、文治派が力を持ったことにも不満を抱いたのでしょう。やがてクーデターを起こした隆房によって義隆は自害に追い込まれ、大内家は事実上、隆房にのっとられて滅亡することになるのです。


【参考文献】
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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