丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 毛利元就
 2019/06/26

「折敷畑の戦い(1554年)」陶晴賢と袂を分かった元就、厳島の戦いを前に圧勝する

折敷畑の戦いで毛利軍が拠点とした桜尾城址(現在は桂公園。出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B0%BE%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
折敷畑の戦いで毛利軍が拠点とした桜尾城址(現在は桂公園。出所:wikipedia

天文23(1544)年、毛利元就と陶晴賢の間に起こった戦い「折敷畑(おしきばた)の戦い」。

翌年の厳島の戦いに連なる戦であることから、これを前哨戦と見ることもあります。たった一日で決着がついた戦いですが、この地が厳島の戦いにおいても重要な拠点となったことを考えると、折敷畑の戦いは毛利にとって大事な一戦であったと思われます。
(文=東 滋実)

戦いの背景

元をたどれば、戦いのきっかけとなったのは陶晴賢のクーデターでしょう。主君・大内義隆を追い込んで実権を握ったのが陶晴賢でした。このころ、元就は大内の一家臣であったため、大内を掌握した晴賢は元就も当然自分に従うものと考えていました。実際、元就も当初は晴賢に協力していたのですが……。

陶晴賢クーデター後、援軍要請に応えず

天文22(1553)年、晴賢は石見津和野三本松城の吉見政頼への攻撃に際し、元就にも援軍を出すよう要請しています。

晴賢に従うべきか否か……。実は、元就自身は要請に応じる考えもありました。今応じなければ晴賢の警戒は避けられないし、毛利には晴賢に敵対するだけの力はなかったためです。

が、息子・隆元の考えは違いました。「吉見氏討伐が終われば、次に目を付けられるのは元就ではないか。場合によっては、元就を抑留する可能性もある。」そう考えたのです。

しかしなかなか結論はなかなか出ず、そうこうしている間に年が明けてしまいました。

元就はチャンスを見計らって尼子を攻める

毛利もただじっとして、晴賢につくか否かと悩んでいただけではありませんでした。とりあえず晴賢に対抗しうるだけの力を得るべく、晴賢の目が吉見に向いている間に尼子勢力を削いで地盤固めをすることに注力したのです。晴賢の三本木城攻めには多くの安芸国人領主たちが従っていたため、元就はこの機会に安芸を掌握しようと考えたのです。

この年の間におおよその尼子勢力を駆逐し、元就は晴賢と対立しうる力を得ました。それは同時に、晴賢の目がこちらに向いてしまうということにもなります。

陶晴賢との決別のきっかけは平賀広相の行動

両者の決別が決定的なものとなるのが、翌天文23(1554)年3月のこと。晴賢は援軍を送ってこない元就に対して使僧を派遣しますが、平賀広相(ひらがひろすけ)がこれを捕らえて毛利に引き渡したのです。

5月11日、元就は隆元との連名で、陶晴賢と断交する決意を表明した書状を安芸の国人領主たちに送ります。この書状をもって、毛利・陶(大内)両氏の関係は決裂します。「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」と呼ばれる出来事です。

5月12日、毛利勢の出陣

断交を示した翌日、毛利勢は家中、吉川氏、小早川氏、熊谷氏含む3000余兵で吉田を出陣。そのままの勢いで銀山城(かなやま/※広島市安佐南区)・己斐城(こい/※広島市西区)・草津城(同西区)・桜尾城(廿日市市)をその日のうち手中におさめ、桜尾城を拠点としました。

折敷畑の戦いの要所。色塗部分は安芸国

戦いの直前、元就のもとを厳島の使者・石田六郎左衛門が訪れます。その使者は「これから始まる戦では毛利が勝利するだろう」という厳島の神のご託宣があったことを告げ、御供米を差し出しました。

「厳島の神の加護がある…」元就はこれを喜んで全軍に伝えました。

おそらく、軍の士気を上げるために元就が考えた策だったのでしょう。実際勝利したことを思えば、この知らせがプラスにはたらいたことは間違いなさそうです。

宮川房長率いる毛利討伐軍が折敷畑へ

一方、元就の裏切りを知った晴賢は、すぐに重臣の宮川房長を討伐に送ります。与えられたのは3000の兵。途中、周防山代・安芸山里などの一揆が加わり、最終的に兵力はあわせて6000~7000あまりにもなったといわれています。

房長は毛利が拠点とした桜尾城が見下ろせる折敷畑山(廿日市市宮内西部)に布陣。標高365mの山でした。

折敷畑の戦いの経過

房長が折敷畑までやってきたことを知った毛利は、すぐに作戦会議を開きます。

籠城するか、野戦に出るか。元就は野戦を選択しました。桜尾城は攻撃に耐えられるほどの城ではなかったし、籠城したところで後詰(援軍)は期待できなかったためです。

6月5日、折敷畑の戦い

元就は城を出て折敷畑へ向かい、軍を複数に分けました。自身が率いる隊は敵の正面に、その他の隊は側面に。四方から房長の軍を攻める作戦です。

まず先鋒が攻撃し、敵を誘い込むように退却。敵はまんまと元就本陣へ攻め込み、その機を狙っていた別の隊に側面から攻撃を受けて包囲されます。元就の軍にあっという間に囲まれた敵軍は殲滅され、房長軍の首級は750あまりにものぼったといわれています。

宮川房長の討ち死に

総大将であった宮川房長は敗走の途中に自害したといわれますが、一説には馬が暴れ出し、そのまま崖の下に転落して命を落としたとも言われています。これが事実だとするならば、房長はすでに60歳を超える老齢であったこともあり、なかなか避けられなかったことでしょう。

不運な最期でした。この討ち死にが毛利には有利に働いたのかもしれません。

元就と晴賢の戦いは大舞台へ

こうしてたった1日で宮川房長軍を蹴散らし、圧勝した元就。このあと一揆の掃討には数か月を要しますが、正規軍を壊滅させた元就の強さは晴賢に力を知らしめるには十分だったことでしょう。

元就は3000の兵力で倍以上の大軍に勝利した勢いのまま、翌年にはついに晴賢との決戦・厳島の戦いを迎えることに。その舞台となった厳島は桜尾城の対岸にあります。


【参考文献】
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 岸田裕之『毛利元就―武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房、2014年)



おすすめの記事


 PAGE TOP