民衆の娯楽・江戸歌舞伎とは? スーパースター歌舞伎役者が勢ぞろい

 江戸時代の歌舞伎は、人々にとって最大の娯楽であり、流行の発信地であった。庶民も武士も大奥の女中までもとりこにした江戸歌舞伎には、いったいどんな魅力があったのだろう。

 江戸初期に始まり、今の歌舞伎の形になるまでの変遷や民主がどのように歌舞伎を楽しんだのか、そして今も続く名役者がどのようにして誕生したのか。江戸歌舞伎の疑問を思いつくまま調べているうちに、歌舞伎にハマりそうになってきた。それほど面白い江戸歌舞伎のことをあなたにもぜひ知ってもらいたい。

歌舞伎の歴史

 歌舞伎の原型が始まったのは、江戸幕府が始まってすぐ、慶長8年(1603)のことである。出雲神社の巫女出身だと称した出雲の阿国が率いた一座が、京において“かぶき踊り”を演じた。

阿国歌舞伎

 阿国が男装し、派手で奇抜なファッションに身を包んだ伊達なかぶき者を演じ、猿若と呼ばれる道化者を連れて、茶屋に向かう。そこで出会った美しい女性を口説き落とすために、官能的に舞い踊る。このかぶき踊りに、人々は熱狂し、お国は一躍スターとなった。

 これ以降、男装の麗人が主役となり、音楽と舞を披露する遊女歌舞伎が全国で流行する。しかし、寛永6年(1629)幕府は風紀を乱すという理由で、遊女歌舞伎を始め、女性が舞台で芸を披露すること自体を禁じてしまった。

『阿国歌舞伎図屏風』(京都国立博物館収蔵、出典:wikipedia)
『阿国歌舞伎図屏風』(京都国立博物館収蔵、出典:wikipedia)

若衆歌舞伎・野郎歌舞伎

 遊女歌舞伎の代わりに台頭してきたのが、美少年による舞や狂言、軽業などを行う歌舞興行「若衆歌舞伎」である。しかしこれも、衆道の風習につながり、風紀を乱すとして禁止された。その後生まれたのが、美少年ではなく、大人の男性が芸を披露する野郎歌舞伎である。

 野郎歌舞伎は、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎のように、舞や踊りだけではなく、役を演じるということを中心とした、今の歌舞伎に近い形へと変化した。ここから歌舞伎は、演劇としての芸能への本格的な道が始まる。

全盛期を迎える歌舞伎

 元禄年間(1688~1704)になると、歌舞伎は大きく飛躍する。江戸と上方にそれぞれ独特の歌舞伎様式が生まれ、芝居の内容がより複雑となり、人気役者が続々登場してくる。また、近松門左衛門らの狂言作者も歌舞伎の発展に貢献した。

 しかし、この勢いに水を差したのが、絵島生島事件だった。大奥最高の権力者であった絵島と、山村座の人気役者・生島新五郎が密かに情を通じていた(真相は明らかにはなっていない)という前代未聞の事件が起こり、山村座は取り潰しとなる。そのあおりを食って、ほかの芝居小屋への幕府の取り締まりが厳しくなった。


 8代将軍吉宗の時代になると、倹約を是とする政策の下、歌舞伎は贅沢の象徴として目の敵にされてしまう。ちょうどそのころ、大坂では人形浄瑠璃が大人気となり、歌舞伎人気は下火になった。

 すっかり人形浄瑠璃に人気を奪われた歌舞伎であったが、ここで滅亡するわけにはいかない。当時大人気だった浄瑠璃の作品を次々と歌舞伎で演じていったのだ。

 それが大当たりとなり、浄瑠璃だけではなく、流行音楽とのコラボも積極的に取り入れて歌舞伎は蘇った。

今につながる歌舞伎独自の演出

 江戸歌舞伎は、客を楽しませるために様々工夫をしてきた。役者の演技力と芸の力に加え、大道具による効果的な演出がどんどんと登場するのである。

廻り舞台とセリ

 お客の集中力が切れないように素早く場面転換するために、考え出されたのが廻り舞台だ。舞台が180度回転して、セットが変わる演出。今でも芝居やショーなどで当たり前のように活用されている。舞台の中央や花道に四角い穴が開けられて、そこから大道具や役者が出てくるセリも歌舞伎が始めだ。

※参考(出典:文化デジタルライブラリー)

 また、大屋根など巨大な大道具の底に違う風景を描いて、その大道具を後ろに90度倒すことで、場面転換をする「がんでん返し」は、太鼓をドンドンと鳴らしながら転換したことから「ドンデン返し」という言葉の語源と言う説もある。

江戸っ子が好んだケレン

 ケレンとは、奇をてらった演出のことである。一人二役を演じている役者が早替わりをしたり、宙づりで舞台上を飛び回ったりという、派手な演出は、江戸の民衆に大変人気があった。天狗や妖狐、天界の人物などを演じる役者が客席の上を縦横無尽に飛び回る様子は、江戸っ子でなくてもワクワクするだろう。

見得(みえ)と六方(ろっぽう)

 江戸時代の歌舞伎見物は、お祭り騒ぎである。

 長時間の観劇中、好き勝手におしゃべりしたり、飲み食いしたりしながら、芝居を楽しむのだ。その上、芝居小屋の中は薄暗く、舞台が見えにくい、セリフが聞こえにくいこともよくあった。そんな環境でも芝居を楽しんでもらうためには、観客を注目させなくてはならない。

 歌舞伎を見ていると、よく「カンカンカン!」と拍子木をたたくような音がすることをご存じだろうか?これをツケと呼び、「ここに注目して!」という合図のようなものとして考え出された。芝居の中の重要なシーンで、役者が見得を切る。最高に見栄えるポーズを決めた役者に合わせて、ツケ打ちが響き渡るのだ。

 また、花道を去るときには、六方という手足を激しく動かす動作で疾走しながらはけていくという演出も面白い。どれもみな観客に注目させ、楽しませるための工夫なのである。江戸歌舞伎は、まさに最高のエンターテインメントだった。

※参考(出典:文化デジタルライブラリー)


庶民にとって歌舞伎とは?

 江戸では、幕府の取り締まりにより、芝居小屋は何度も強制移転させられ、芝居小屋の作りを厳しく制限されたこともあるが、最終的には、中村座・市村座・森田座の江戸三座に定まった。天保の改革で三座は、浅草の猿若町に移転となるが、それまでは江戸の中心部にあり、特に中村座と市村座があった二丁町は、人形浄瑠璃や見世物小屋も並ぶ、江戸の一大興行街となっていた。

 見物客用の飲食店や土産物屋も軒を連ねた繁華街は、歩くだけでテンションが上がる、まさにエンタメエリアだった。庶民にとって歌舞伎を見るということを現代で例えるなら、ディズニーランドへ行って、アトラクションとパレードを楽しんで、人気スターやアイドルの舞台を見て、美味しい食べ物を堪能して、素敵なお土産を買って帰る、夢のような一日を過ごすようなものである。

歌舞伎見物の一日

 芝居小屋の表には、勘亭流で書かれた大きな看板が何枚も掲げられ、本日出演する役者の名前がずらっと紹介されている。丸みのある黒く太い文字で、漢字のハネはすべて内側にハネている。これは、客席に隙間がないように、無事円満に興行ができるように、客を小屋へ引き入れるという意味を持ち、安永8年(1779)9代目中村勘三郎の依頼により、生み出された歌舞伎独特の字体である。

 見物席は、土間席と桟敷席がある。花道が正面に見える2階の桟敷席は、最大6人までは入れる升席で、それより安いのが1階の土間席だ。材木で枡形に区切られ、その材木の上を客や売り子が行き来する。芝居途中でもお構いなしである。

寛政初年の江戸劇場内部(『歌舞伎史の研究』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政初年の江戸劇場内部(『歌舞伎史の研究』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 舞台は、早朝から「序開き」という下級役者の寸劇から始まる。続いて「二立目」で中堅役者の芝居。お昼過ぎから「三立目」、やっとスターの登場となる。しかし、日が暮れればおしまいとなるので、運悪く話の途中で終わることもよくあったそうだ。

 芝居がハネると(終わる)余韻に浸りながら夕食を取り、みんなで感想を話すのも芝居見物の楽しみとなっていた。今の私たちのように、江戸時代の人たちも、めいいっぱいエンタメを楽しんでいたのだと思うと、なんだか親しみがわく。

江戸歌舞伎のスター勢ぞろい

 最後に、歌舞伎役者のスターを紹介しよう。まずは、なんと言っても市川團十郎。

初代 市川團十郎(1660~1704)

 初代市川團十郎は、延宝元年(1673)14歳でいきなりデビューした珍しい役者である。坂田金時役の彼は、全身真っ赤、顔は墨で隈取をして、ド派手な衣装で登場し、所狭しと暴れまくったという。現代の團十郎も目力がすごいが、おそらく初代團十郎も迫力があったことだろう。彼の荒々しく、勇壮な芸風は「荒事(あらごと)」と呼ばれ、江戸歌舞伎の代表的なイメージとなる。しかしこの初代團十郎は、45歳の時、舞台の上で役者の生島半六に刺されて死亡するというショッキングな最期を迎えている。團十郎らしいと言えなくもない。

初代 坂田藤十郎(1647~1709)

 初代坂田藤十郎は、京都を拠点として活躍した役者である。近松門左衛門のような狂言作者が多く登場した元禄時代、藤十郎は、身分の高い人が市井の庶民に身を落とした姿を見せて憐れみを誘う「やつし」と言う芸風が得意で、遊郭を舞台としたラブシーン(濡れ事)など、上品で柔らか、女性的な「和事(わごと)」という芸の形を作り上げた。

初代 沢村宗十郎(1685~1756)

 初代沢村宗十郎は、京都の武家の出身で、長い下積みののち、35歳で江戸へ進出しデビューを果たしたという異色の人物だ。彼は役者としてだけでなくファッションリーダーとしても人気があり、彼が舞台でつけた頭巾は「宗十郎頭巾」として大流行した。

初代 中村仲蔵(1736~90)

 天明から寛政(1781~1801)にかけて活躍したのが、初代中村仲蔵である。最近では、中村勘九郎主演でドラマとなった「仲蔵狂乱」でご存じの方もいるかもしれない。仲蔵は、役者仲間からのいじめに遭いながらも、一心不乱に芸にのめり込み、31歳でブレイクした役者だ。リアルな芝居や所作事(舞)が得意で一世を風靡した。

五代目 松本幸四郎(1764~1838)

 中村仲蔵と同時代に活躍した五代目松本幸四郎。鼻が高くとても美男子だったが、中村仲蔵が得意だったリアルな悪役にあこがれて、敵役を追求し続けた役者である。

当たり役となった『伽羅先代萩』の仁木弾正(出典:wikipedia)
当たり役となった『伽羅先代萩』の仁木弾正(出典:wikipedia)

三代目 沢村田之助(1845~78)

 類まれな美貌で女形のトップとなった三代目沢村田之助は、江戸歌舞伎最後の超人気役者である。その人気はすさまじく、役者絵(アイドルの生写真のようなもの)のほとんどが、田之助のものとなり、田之助のファッションはことごとく流行した。「田之助髷」に「田之助襟」「田之助下駄」まで…。だが後年は、怪我が元で「脱疽(脱疽)」という病になり、数年後には四肢のほとんどを失う。それでも舞台に立ち続けた田之助だったが、最後は精神に異常をきたし、明治11年(1878)に亡くなっている。なんという役者魂だろうか。

『本朝廿四孝』の八重垣姫(出典:wikipedia)
『本朝廿四孝』の八重垣姫(出典:wikipedia)

あとがき

 改めて歌舞伎の歴史を振り返ってみると、現代のエンタメの基本となっている演出や技術のなんと多いことか、そしてなんと奥深いものであろうか。今更ながら、江戸の昔と今は、つながっているのだという不思議な感動があふれる。芝居一座と役者たちの、観客を楽しませたいという強い思いとそれに伴うさまざまな工夫が、江戸歌舞伎を支え、今に続いているのだ。もし次に歌舞伎を見る機会があったら、その歴史にも思いをはせて、ぜひ新しい歌舞伎の魅力を見つけてみたいものだ。


【主な参考文献】
  • 堀口茉純『歌舞伎はスゴイ』(PHP研究所、2019年)
  • 正井泰夫 『ゼロからわかる江戸の暮らし』(学研プラス、2012年)
  • 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
  • ジャパンナレッジ『新版歌舞伎事典』(平凡社、2011年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。