お江戸の吞兵衛たちの憩いの場・居酒屋…ゆすりたかりもあったけれど

『鶏声粟鳴子』に描かれた江戸時代の煮売り酒屋(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『鶏声粟鳴子』に描かれた江戸時代の煮売り酒屋(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 今も昔も酒好き、とりわけ日本酒党にとって楽しみの場である「居酒屋」。居酒屋が出来たのは江戸時代中期ですが、当時の店はどのようなものだったのでしょう。

繁盛する枡酒屋

 居酒屋が出来るまで江戸の庶民たちは枡酒屋(ますざけや)の店先で気軽に飲んでいました。枡酒屋と言うのは酒を量り売りする店で、買った酒をその場ですぐに飲んでおり、これを『居酒(いざけ)』と言いました。枡の角に塩を一つまみ盛ってそれをなめながらちびちびやる、そんな通な飲み方だったのでしょうか。

量り売りする枡酒屋(『人倫訓蒙図彙』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
量り売りする枡酒屋(『人倫訓蒙図彙』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 この枡酒屋の繁盛ぶりに目を付けた男がいました。

「床几で座れるようにして肴も出せばもっと客が来て繁盛するだろう」

 どこにでも目端の利く人間はいるもので、ここで落ち着いて飲むことを楽しませる店、居酒屋が出来ました。18世紀中頃のことです。

 店の入り口には縄のれんを掛け、店の中には空になった酒樽を置いてその上に板を渡して客が座れるようにします。床几も置き客は座って酒を楽しめるようになりました。

 ちょいと腰を掛けて片足を床几に乗せ片あぐらで飲むのが粋です。居酒屋での酒肴はお膳ではなく、折敷で出され、これをわきに置いて一杯やります。

酒は中汲みでよいが、ぬる酒は御免だね

 この時代、上方から江戸へやってくる透明度の高い高級清酒を、「下り諸白(もろはく)」と呼びました。一方、居酒屋で出されるのは「中汲(なかぐみ)」とか「並酒(なみざけ)」と呼ばれる安い濁り酒で、庶民はこれで十分でした。

 江戸時代は1年を通して酒は温めて飲むものだったようです。平安時代だと9月9日の重陽の節句から翌年3月3日の上巳の節句までは「あたため酒」を飲んでおり、9月に燗酒を止めるのを「別れ火」と言い、夏と冬で飲み分けていました。

 戦国時代にやって来た宣教師たちが「我々は葡萄酒を冷やす、日本では一年中ほとんど酒を温めている」と書いていますから、そのころには通年燗酒を飲んでいたようです。貝原益軒も『養生訓』で「冷や酒は脾臓や胃を痛めるから夏でも冷やで飲んではいけない」とたしなめています。

 居酒屋では酒をチロリと言う銅でできた容器に入れ、器ごと燗銅壺(かんどうこ)に入れ、湯煎にかけて温めます。客がチロリから酒を汲んで飲む絵が残っていますが、持ち手のついたコップのような容器が膳の上に置いてありますから現在とほとんど変わっていませんね。

 居酒屋では酒の燗には気を使い、専属の「燗番(かんばん。酒の燗の番をする人)」を置いたりします。客もうるさかったらしく、酒がぬるくなると温めなおしを要求したりします。

『磨光世中魂 』2巻。画像中央下付近にあるポットのような容器がチロリ(歌川芳虎 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『磨光世中魂 』2巻。画像中央下付近にあるポットのような容器がチロリ(歌川芳虎 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

差別化を図る居酒屋

 居酒屋は庶民が気軽に楽しめるのが売りですが、中には差別化を図る店も出てきます。

 「日本酒は古くなると酢になる」と言うのは間違いで、多少酸味が出ることはあっても酢にはなりません。現在では熟成古酒として一升1万円以上のものもありますが、江戸時代にも古酒は珍重されました。

 文政年間(1818~1831)頃に裕福な人々の間で飲まれた「九年酒」と言う銘柄が代表格で、太和屋又(やまとやまた)商店が醸造した九年古酒は最高級で一升が銀十匁もしました。江戸の庶民の高級酒「瀧水(たきみず)」が一升300文ですから、値段の違いがよくわかります。このような高級酒も置いていたのが、両国橋西詰の広小路あたりにあった”意識高い系”居酒屋です。

 店の中に薦被りの酒樽を積み上げ、店の前の看板には「生諸白伊丹(きもろはくいたみ)」の文字が見えます。現在なら灘の生一本でしょうか、当時の最高級ブランド伊丹産の生諸白を飲ませる店ですよって事です。こういった店は客筋も違いましたが、一般庶民はまだ麹の香りも抜けない搾りたての新酒を積んでくる上方からの一番舟を楽しみにしていました。

肴は小鍋仕立てが粋

 江戸っ子は醤油と鰹節で味付けされた小鍋仕立てが好きなようで何でも鍋にしてしまいます。当初は土鍋が使われましたが、太田南畝は「安永のころから鋳物の浅い鍋が作られ、土鍋は廃れた」と言っています。

 そんな鍋で煮られるのは江戸の三白(さんぱく)と言われた豆腐・大根・白飯を始め、雑多な野鳥類です。江戸時代は鶴・白鳥に始まり、雁・雉・山鳥・鷺・鶉・雲雀・鳩・鴫・水鶏・鶫・雀など、身近にいる鳥はみんな捕まえて食べています。鍋の他に汁や炒り鳥・刺身などで、野鳥の肉は癖がありますが、そこは調味料でカバーしました。

『江戸年中風俗之絵』にある酒飯屋(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『江戸年中風俗之絵』にある酒飯屋(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 調味料は油・酢・味噌・塩・砂糖などで、その大半は江戸中期までは上方からの下りものでした。しかし肉体労働者が多い江戸では上方の上品な薄口では物足りません。江戸中期から後期にかけて下総の銚子や野田で醤油が本格的に醸造され、小麦を多く使った江戸っ子好みの薫り高い濃い口醤油が量産されます。

 そんな濃い目の味付けの居酒屋料理は、大根や蒟蒻のおでん4文、ねぎま鍋4文、蒟蒻田楽4文、油揚げ4文、鯖の味噌煮4文、泥鰌汁・ふぐ汁・猪や鹿の吸い物16文、稲荷寿司1個4文、タコの足1本4文、煮豆8文などです。1文30円として、一皿120円からいろいろな料理が安く楽しめました。

居酒屋の客筋

 居酒屋の主な客は、お店者の手代や小商人、棒手振(ぼてふり)や職人、駕籠かきに車引き、武家奉公の仲間や小者などです。武士は庶民に混じって飲み食いするのを卑しいとしましたが、下級武士は安い値段で酒も肴も楽しめる居酒屋に頬かぶりをしてやって来ます。

 庶民向けの居酒屋にはややこしい連中もやってきました。代表的なのは町火消と幕府直属の定火消の火消人足たちです。全身に入れた彫り物をちらつかせ、内職で作った銭差し(一文銭を穴に通してまとめるための紐)を高値で売り付けたり、「確かに酒は飲んだが金は無ぇ、気に入らなけりゃどうとでもしてくれ」と凄んでただ酒を飲もうとしたり。挙句には、みかじめ料をせしめようとしたり。昔も今も客商売は大変です。

『江戸の花子供遊び』に描かれている火消(歌川芳虎 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『江戸の花子供遊び』に描かれている火消(歌川芳虎 画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

おわりに

 縄のれんは今も昔も居酒屋のシンボルですが、昔は埃除けや虫除けの役目もありました。店先に茹でダコや野鳥など料理出来るものをつるして客を呼んだので虫も寄って来ました。


【主な参考文献】
  • 伊藤善資/編著『江戸の居酒屋』(洋泉社/2017年)
  • 吉田元『江戸の酒』(岩波書店/2016年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。