「忍原崩れ(1556 or 58年)」毛利、石見銀山をめぐる戦いに苦戦
- 2019/08/29
厳島の戦いで大内氏重臣の陶晴賢を破った毛利元就は、その勢いを緩めることなく突き進みます。陶晴賢を失って弱体化した大内氏を叩くための防長経略に力を入れる一方で、同じころ北の石見国にも目を向けていました。
この石見への進出の責任者として選ばれたのは元就の次男・吉川元春でした。厳島の戦いでは小早川隆景とともに戦功をあげた人物でしたが、こと石見経略においては幾度も辛酸をなめることになります。
この石見への進出の責任者として選ばれたのは元就の次男・吉川元春でした。厳島の戦いでは小早川隆景とともに戦功をあげた人物でしたが、こと石見経略においては幾度も辛酸をなめることになります。
勢力拡大と石見銀山支配を狙って
大内氏の衰退で毛利が台頭
元就はなぜ石見に目を向けたのか。理由のひとつに、石見銀山(島根県大田市)があります。石見銀山の最盛期は戦国時代末ごろから江戸時代にかけて。現在も世界遺産として名の知れた名所になっていますが、時代をさかのぼると、この地で銀を発見したのは大内氏だったとされています。大内義興によって大永6年(1526)ごろから銀の採掘が本格的にスタートしましたが、義隆に代替わりしたころ、ちょっとよそに目を向けている隙に石見の小領主・小笠原長隆に奪われてしまいます(享禄3年/1530年ごろ)。
数年後に大内氏が取り返しますが、天文年間にはさらに出雲の尼子氏まで銀山を狙うように。そこからは大内、尼子、小笠原による石見銀山争奪戦がしばらく続くのです。
さて、厳島の戦いで大内が弱体化し、義隆が亡くなって新たに銀山争奪戦に名乗りをあげたのが元就でした。それが弘治2年(1556)のこと。ここから毛利と尼子の争奪戦が数年にわたって繰り広げられることになります。
山吹城を得れば石見銀山も手に入れられる
大内氏が周辺から石見銀山を守るために築いたのが、要害山にある山吹城でした。山全体におよぶ規模の山城。石見銀山をめぐるたたかいとはすなわち、この山吹城を奪い合う戦いでもありました。毛利もまずこの山吹城を手に入れるところから始めます。
元就次男・元春が攻略を任される
山陰への侵略の一歩ともいえる石見経略において、責任者に抜擢されたのは元就の次男・吉川元春でした。これより後に本格的になる毛利両川体制では、安芸北部の山間部を本拠とする元春(居城は日野山城)が山陰方面を担当し、安芸沿岸部を本拠とする隆景(居城は新高山城)が山陽方面を担当することになりますが、すでにこのころから元春は山陰方面の担当者として重要な役割を任されていたのです。
元就が元春を任命した理由としては、元春が養子に入った吉川氏がもともと石見と関わりの深い一族であったことが挙げられるでしょう。石見の国人領主たちとつながりのある「吉川」の名を利用し、石見方面の調略を進めたのです。
調略は順調に進むも……
これは縁の薄い元就自身が先頭に立って進めるよりも、吉川の名を持つ元春に任せたほうがスムーズにいくと考えたためでしょう。元就の読みは当たり、益田氏や三隅氏が毛利の側につき、毛利は石見の一部を手中におさめました。さらに元春は山吹城を守る刺賀長信(さすがながのぶ)を帰順させ、山吹城を手に入れます。戦いの経過
長年、大内、尼子、小笠原が奪い合ってきた石見銀山。財源となる宝の山をぽっと出の毛利に奪われたままで、尼子が黙っているはずがありません。7月下旬、毛利の主力は防長経略の真っただなか。石見に割いている人員は少なく、尼子晴久はその隙を狙って25000もの大軍で山吹城を攻めました。対して、宍戸隆家率いる毛利軍はおよそ7000。山吹城が天然の要害であることから、地の利を生かして少数で勝利できると踏んだようですが、その考えは裏目に出ました。結論から言うと、毛利軍は尼子軍に大敗を喫したのです。
要路である忍原で両軍が激突
城攻めにおけるセオリーは兵糧攻め。亀谷城を拠点とする尼子にとっても補給路を断たれるのは痛手です。そこで、先手を取って池田川本間の補給路を遮断したのです。籠城する刺賀長信は飢えに苦しめられました。山吹城が包囲され、元就は急遽宍戸隆家を送りますが、これを知った晴久は忍原に出陣します。この地は石見銀山への要路。戦の要の地でもありました。
忍原で激突した両軍。宍戸軍は挟み撃ちにされる形で攻撃され、成すすべなく敗れてしまいます。忍原は谷川になっており、尼子軍は山の上から石を落として攻撃したとか。狭い忍原峡で毛利軍は猛攻にあい、数百の兵力を失いました。これがいわゆる「忍原崩れ」です。
9月3日、山吹城陥落
そのまま勢いづいた尼子軍は山吹城への攻撃を続け、ついには山吹城を落とします。兵糧攻めに苦しめられた刺賀長信は自刃。結果、毛利は山吹城および石見銀山を尼子に奪い取られてしまいました。なお、忍原での戦いは弘治2年(1556)説、永禄元年(1558)説があります。
元就が石見銀山を手に入れるまでは数年を要する
石見侵略で痛い思いをした毛利。だからといって石見銀山をあきらめることはしませんでしたが、その後数度に渡って奪取を試みるも、失敗を繰り返します。そこに至るまでに何度も死闘を繰り広げましたが、ついに尼子晴久の存命中に勝ち取ることはできませんでした。元就が石見銀山を手に入れるのはこの数年後、永禄5年(1562)を待たなければなりません。
【参考文献】
- 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
- 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
- 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)
- 『日本歴史地名大系』(平凡社)
- 石見銀山世界遺産センター公式ホームページ
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