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樋口季一郎の決断 占守島の戦いでソ連の北海道占領を阻止!
- 2023/07/18
千島列島北東端にある周囲約80キロほどの島・占守島(しゅむしゅとう)。終戦間際、対日宣戦布告をして一方的に日ソ中立条約を破棄したソ連が、終戦直後の昭和20年(1945)8月18日に占守島に上陸。旧ソビエト軍と旧日本軍の守備隊との間で激しい戦闘が繰り返され、双方に大勢の死傷者が出ました。
樋口季一郎の決断
ソ連が侵攻を開始したのは昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争が終わった直後でした。当時のこの辺りは、日本が千島列島と南樺太までを領土としていたのです。しかし、一方的に日ソ中立条約を破棄したソ連が、18日にカムチャツカ半島の先にある、千島列島北東端の占守島に侵攻します。 占守島では日本の守備隊が自衛で応戦し、必死でソ連の侵攻をくい止める中、戦闘は益々激化し、多くの死傷者が出ました。そして21日には停戦命令が発令されて日本が降伏することに…。結局、ソ連は千島列島と米軍がいなくなった北方4島を占領したのです。
このとき占守島での自衛戦を決断したのが旧陸軍軍人の樋口季一郎でした。ロシア語が堪能で軍では対ソ連関係の仕事に従事し、終戦時は旧陸軍第5方面軍の司令官だった人物です。ソ連が侵攻を開始した時点で、スターリンの狙いは北海道本島まで広がっていました。このときもし、樋口季一郎の決断がなかったなら、北方領土に留まらず、北海道もソ連の領土になっていたでしょう。
占守島の戦い
日本のポツダム宣言受諾通告の直後、極東方面軍と太平洋艦隊の両司令部に、ソビエト軍総司令官から、千島列島北部の占領を目的とする作戦の実施が発令されます。千島列島南部においては、サハリンからの部隊が侵攻する計画になっていました。この占守島上陸は、日本軍の武装解除の最中を狙って行なわれました。侵攻に気付いた樋口季一郎らが、急遽間に合わせの武装で戦闘になったのです。戦闘においては一時、ソ連軍を上陸地点になった竹田浜まで押し返す活躍を見せます。しかし第5方面軍の戦闘停止命令に従って、降伏を認めた上で完全に停戦が成立しました。そして24日までには、占守島と幌筵島の日本軍は武装解除することになりました。
この戦闘で、ソ連側死傷者数は日本側死傷者の1.5倍となっています。ソ連側の資料ではありますが、日本側死傷者約1018名、ソ連側約1567名となっています。
慰霊祭
その後、8月27日までに日本軍は武装解除となり、9月の初めまでには全千島がソ連軍の占領下に。樋口季一郎らの奮闘で千島列島では占守島以外での戦闘はありませんでした。そして祖国を守った日本兵は、シベリアへ抑留されたのです。2014年以降にサハリン州の調査団が占守島を調査し、日本兵とソ連兵の遺骨を収集しています。しかし、2015年11月までに帰ってきた靴はわずか27柱のみ。そのうち身元が特定できたのはたったの1柱だけなんですよ。その後の2016年7月にも調査は行われ、遺骨や日本軍のカノン砲などが収集されました。
2017年7月19日には、民間団体の方々約20人がカムチャツカ半島からヘリコプターで飛び立ち、占守島の戦い最大の激戦地となった四嶺山を訪れ、慰霊祭を実施したのです。現地での慰霊祭は、日本政府が主催となり2005年に行われて以来12年ぶりのことでした。
完全撤退の日
札幌市にある「つきさっぷ郷土資料館」には、樋口季一郎の遺稿を活字にした私家版の「遺稿集」が展示されています。そこで樋口季一郎は、ソ連の侵攻に対し「戦争と平和が交替するべき日で、いかなる理由があろうと不法行動は許されるべきでない。もしそれを許せば、至るところでこの様な不法かつ無智な敵の行動が発生していまい、平和的な終戦などあり得なくなる」と言っています。樋口季一郎のお孫さんである、明治学院大名誉教授の樋口隆一さんは、遺品となる資料をまとめ「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓」を出版しています。占守島の戦いは日本を守るための戦い、結果的に北海道を守り切り、日本は分断されなかったと語っていました。
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