椿井政隆が後世に残した大迷惑 『椿井文書』にご注意を

★上記画像は大阪大谷大学より令和4年6月1日付で掲載許可を頂いております。
★上記画像は大阪大谷大学より令和4年6月1日付で掲載許可を頂いております。
滋賀県の米原市では「七夕伝説」という言い伝えが語り継がれており、お祭りや町起こしの材料に使われていました。内容的には「雄略天皇の第4皇子である星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢天皇の第2皇女である朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)の悲恋を知った僧侶が米原市の蛭子神社(ひるこじんじゃ)に合祀した」というもので、『世継神社縁起之事』という古文書に記載されています。

周辺には天野川(あまのがわ)、北側の蛭子神社には「七夕石」と呼ばれる石があり、南側の朝妻神社には「彦星塚」(ひこぼしづか)と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)など「七夕」を想起させる遺物や名称が存在しますので、米原市では、七夕伝説を疑う人はおらず、学校で地元の歴史という形で教えられてもいました。

ところが、2021年に専門家が『世継神社縁起之事』を調査したところ、これは通称『椿井文書(つばいもんじょ)』と呼ばれる偽文書であることが発覚。当然ながら米原市は大変な騒ぎになりました。

  • 「偽書だと言っても、史料の発見以来、七夕教育は長く地元の行事として親しまれてきたものです。そうしてできた近年の歴史もまた郷土の歴史です」
  • 「偽史として記されてきた背景が明らかになれば、それはそれでおもしろいから歴史の授業に取り入れたらどうだ」

上記のような苦しい言い訳や、見方によっては自暴自棄とも取れる動きにまで発展してしまったのです。

いわゆる古文書と呼ばれる寺社などに古くから保存されていた物は無条件に信じられてしまう傾向が一般的にあると言えるのですが、実はこういった古文書の中には適当に作った真っ赤なウソもあり、それにはそれなりの事情というものがあったのです。

中でも、主に滋賀県、奈良県、岐阜県、福井県、京都府に数多く残されている有名なフェイク古文書が『椿井文書』です。今回はこの『椿井文書』について述べてみましょう。

椿井正隆という人物

大量の偽古文書を作成したのは椿井正隆という江戸時代後期の人物です。椿井正隆自身については不明な点も多く、正確なことは分かっていませんが、江戸時代に流行した国学に精通していたものと推測されています。

椿井正隆がフェイク古文書を作った発端は、当時よくあった、村と村の間のトラブルを解決するためだったようです。

例えば、入江内湖(自然に出来た琵琶湖の入江)の漁業権は磯村という村が特権的に支配をしていました。当然ながら他の周辺の村は面白くはなく、磯村と他の村の間でたびた争論が起きていました。すると椿井正隆は『筑摩社並七カ寺之絵図』という古文書をでっち上げます。

それには「当時の磯村がある場所は、ずっと以前は筑摩村と筑摩村から分裂した他の村があった」とし、ずっと後方の位置に磯村があったとされているのです。つまり、筑摩村に有利な歴史が書かれていたことで、磯村の特権的な漁業権に異を唱えることができた訳です。

また、村と村の境界線を巡るトラブルも多く、椿井正隆はそういった場所に現れては「どっちかに有利な古文書」をでっち上げてトラブルを解決していたと思われるのです。

寺社の死活問題

当時、国家神道が軌道に乗り始めており、神社の社格というものが重要な意味を持つようになってきていました。

何か由緒のある寺社は格が高く、それがない寺社は格が低いとされつつありました。しかし、ほとんどの寺社には「由緒」などありません。そこで依頼を受けた椿井正隆は「由緒」をでっち上げた古文書を作りました。冒頭にご紹介した米原市などは、その一例と思われます。

明治に入って大日本帝国憲法が公布され、日本は ”神道の国” と決められると、明治政府は不要な寺の廃止に着手します。寺は江戸時代、実質的に住民管理の行政機関としての役割を果たしており、まさに「美味しい仕事」でした。しかしこれからは明治政府が戸籍を管理するため、寺はもういらなかった訳です。

ただ、中には歴史的に価値のある物を有していたり、皇室につながる何等かの由緒を持つ寺は廃止されずに済みました。そこで由緒を持たない寺社は椿井正隆の作った大量の偽古文書の中から都合の良い「由緒」を書いた古文書を売ってもらい、廃止を免れたのです。

つまり、トラブル解決、寺社の格付け用、として大量の偽文書が作成された訳ですね。こういった偽文書は地元にとっては都合が良いものなので、とても受け入れやすいものでした。このため、現代にまで伝わっているのです。

椿井正隆は作った古文書に必ず「事実である部分」も巧妙に混ぜています。正当な一級史料から辿っていくと合致する部分もあるので、歴史学者の中でも『椿井文書』は歴史的価値があると主張する人もいるほどです。まさに「椿井正隆の思うツボ」にはまってしまっている例も見受けられるのです。

さらに『椿井文書』は慎重に1つ1つの偽文書の書体を変えて、同一人物が作ったことがバレないような工夫もされています。ただし、共通する傾向があり、それを心得ていれば、ある程度まで見分けがつけられるのです。

椿井文書に共通する特徴

以下に『椿井文書』の共通する特徴を列挙してみます。

  • 範囲:滋賀県、奈良県、岐阜県、福井県、京都府
  • 用紙:煤で染められた間合紙
  • 書体:明朝体
  • 年号:承平~元亀~天正~
  • 署名:公文所誰某(例:興福寺公文所豊舜)
  • 表装:織子や安価な(紅地の)錦襴。
  • 木箱:切り口を墨で古色に塗装したもの、桐箱や春慶塗。

上記のほか、『椿井文書』には絵図が入れられることが多く、その中に必ず文字が書き込まれているという特徴があります。

絵図が入っていることは現代に生きる私達にとって、興味を引きやすくします。行書体の文字がずらっと綴られているだけの古文書は見ても面白くないですが、『椿井文書』は必ず絵図が入っているので、見る方も興味を持てます。このように、内容だけでなく、見た目が良い、という理由もあって『椿井文書』は各地で受け入れられてきたのです。

歴史の古文書と称するものの中には武田信玄の『甲陽軍艦』をはじめ、江戸時代以降に成立した、戦国時代を描いた本が相当数存在します。これらは多分に、庶民の娯楽、芝居や講談のネタ本、として使われ、広まりました。そもそもの目的が「楽しませてやろう」という意図なので多少の脚色があるのは当然ですし、事実でなくても面白ければよいので、これは一種のサービス精神というものでしょう。

しかし『椿井文書』は利己的な目的のために作られたものです。また、意図的に古めかしく見えるよう工夫したりしているのは、騙すことが目的であったことが明瞭です。「『甲陽軍艦』に書かれていることは歴史的に正しくない」といわれるのとは訳が違う、確信犯の偽文書であると言えるのです。

おわりに

ですので米原市の言い訳は「椿井正隆に騙され続けてきた歴史も、また歴史です」と言っているようなもので、自ら黒歴史を認めているような気がします。とはいえ、このようにしか言い訳ができない事態に追い込まれたら、やむを得ないのでしょう。

こうした不測の事態に追い込まれないためにも、該当する地域の自治体の方には地元の歴史に『椿井文書』が絡んでいないかどうか、を再検証されることをお勧めします。『椿井文書』と断定された物は相当数ありますが、まだどこに眠っているかは分からないのですから。

※参考文献
馬部隆弘著『椿井文書―日本最大級の偽文書』(中公新書、2020年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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