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【やさしい歴史用語解説】「流罪」
- 2023/04/17
流罪が法制化されたのは奈良時代のことですが、あくまで追放刑でした。配流先も越前・伊豆・土佐・安芸など、比較的畿内から近い場所が多かったようです。
ちなみに当時は流罪に処されても一生戻れないわけではありません。配流先で1年間労役に服し、その上で戻すかどうか吟味されました。よく働けば無罪放免になりますし、労役が足りないと判断されれば、さらにもう1年延長されました。刑期を終えた者には相応の田畑が与えられたそうです。
ところが律令制の崩壊とともに民衆の流罪はなくなっていき、貴族や権力者が流罪となるパターンが増えてきます。例えば反乱を起こした人物や、政争に敗れた者など、上流階級の人々が多く流されました。平氏打倒計画に加わった僧・俊寛(しゅんかん)や、承久の乱を起こした後鳥羽上皇など、簡単に脱出できない島へ流されています。
しかし流罪になっても苦労ばかりではなかったようです。地方へ流された文化人たちは現地で優れた文化を伝えていますし、高貴な家柄の出身だったおかげで、地元の人々から尊敬を受けたといいます。
やがて江戸時代になると、流罪は刑罰の一つとして機能しました。それが「遠島」と呼ばれる追放刑で、文字通り絶海の孤島へ島流しになるものでした。
島流しが本格化するのは江戸時代中期からです。9代将軍・徳川吉宗の時代に「公事方御定書」として法制化されました。死罪に次ぐ重罪となっていますが、実に細かく刑の規定が定められたようです。
まず流刑地ですが、江戸の罪人のケースでは伊豆諸島が指定され、畿内の罪人なら隠岐や壱岐、あるいは天草諸島へ流されました。
罪状については「殺人や傷害」、あるいは「賭博」「鉄砲の所持」が上げられますが、最も特徴的なのが刑期に制限がないことです。つまり、何もなければ一生島から出られないことを意味します。とはいえ、将軍の代替わりごとに恩赦が出ますから、運が良ければ数年で戻ることも可能でした。
ただし、大変なのは島での生活です。もともと裕福だった罪人ですと、ちょっとした屋敷が与えられたり、島女房という現地妻を持つこともできますが、一般の罪人ですとそうはいきません。島民の漁や農業を手伝うことで、わずかな食べ物を得ていたそうです。それでも島での暮らしは厳しく、ひとたび飢饉に見舞われると裕福な罪人ですら餓死しました。
一例として、江戸時代初めに八丈島へ流された永見大蔵という武士がいました。彼は徳川家康の孫にあたる人物で、越後騒動を起こした咎で島流しに遭っています。もちろん上級武士ですから島では裕福な生活を送っていたのですが、島で大飢饉が起こって食物がなくなり、千両箱を抱えたまま餓死したそうです。それだけ江戸時代の流罪は厳しいものでした。
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