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【やさしい歴史用語解説】「駆込寺(縁切寺)」
- 2023/09/15
しかし、まったく離婚できないか?といえば必ずしもそうとは限りません。夫の横暴に泣く女性を救済するために「縁切寺法」が定められ、多くの女性が救われたといいます。そんな妻たちが頼ったのが「駆込寺(縁切寺)」でした。
江戸時代以前にも駆込寺は存在していましたが、幕府公認となったのは「東慶寺」と「満徳寺」だけです。もし離婚を望む妻が駆け込んでくると、寺は夫に対して召喚状を送り付けて双方の事情を聞きました。明らかに夫側に非がある場合には、示談つまり仲人や親類などによる仲介のうえで離婚を勧めます。しかし、妻の言い分におかしな点がある場合は、そのまま家に帰されてしまったとか。
とはいえ示談が成立せず、夫が離婚を承諾しないとどうなるのでしょう?これも法によって女性側の保護が定まっています。妻は寺入りとなって一定期間(実質2年ほど)過ごせば、自動的に離婚が成立しました。夫側からすれば、無駄に時間を掛けたり騒動になるよりは、示談の段階で離婚するほうがマシだったわけですね。
さて、幕府公認だった二つの駆込寺ですが、早くから縁切りの寺として知られたのが太田の満徳寺です。豊臣秀頼の正室だった千姫が大坂城から脱出したあと、本多忠刻のもとへ再嫁するのですが、秀頼が亡くなったとはいえ正式に離婚したわけではありません。千姫はこの寺へ入って秀頼との縁を切り、改めて忠刻のもとへ嫁いだそうです。
いっぽう鎌倉の東慶寺が建立されたのは鎌倉時代のこと。第8代執権・北条時宗の正室だった覚山尼が開山したものです。覚山尼は苦しむ女性を救済することを念じ、ここを縁切りの寺としました。東慶寺の「由緒書」によるとこうあります。
「女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」
3年の間、寺で妻を預かるとありますから、すでにこの時代から縁切りの作法が根付いていたのでしょう。
江戸時代になると、豊臣秀頼の娘・天秀尼が東慶寺の住持となります。彼女は毅然とした女性だったようで、脱藩してきた加藤家の家老・堀主水の妻子を寺にかくまいました。すぐさま加藤明成から捕縛の命令が下りますが、天秀尼はこれを突っぱねて啖呵を切ります。
やがて天秀尼は養母の千姫を通じて幕府へ事情を訴え、結果的に加藤家は改易となりました。力のない女性や子供を救いたい。それが豊臣家を失い、命を長らえた彼女の宿願だったのかも知れません。
それでは最後に一つウンチクを。現代でも使われる「三下り半」という言葉ですが、これは夫から出す離縁状のこと。もはや離婚するのに理由を書く必要もなく、たった三行半で足りるという意味なんだそうです。
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