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炎上した金閣寺と、牛車の行列のお話
- 2023/03/03
みなさんはご存じでしょうか? 誰もが知ってるあの金閣寺は、実は昭和25年(1950)7月2日に放火によって消失しているんです。この事実は、三島由紀夫が書いた小説『金閣寺』や、水上勉の『五番町夕霧楼』及び『金閣炎上』などでも取り上げられました。
放火で金閣寺焼失。犯人は…
日本の重要な遺産だった金閣寺に放火したのは、金閣寺の徒弟僧侶だった当時21歳の青年でした。京都の北部舞鶴で誕生した青年は、京都に出て来て大谷大学に入学し、勉学に励みます。そのかたわら、金閣寺に住み込む修行僧として日々研鑽を積んでいました。それがいったいどんな考え違いをしたのか、金閣寺という美に対して嫉妬をし、金閣寺を訪れる裕福な観光客と自分の劣悪な生活環境を比べることで反感を持ち、放火をしたのだ、と警察の取り調べでは供述しています。
放火をした若き徒弟僧侶は金閣寺が炎上した直後に、裏山に逃げ込んで自殺を図ったのですが、結局は死にきれなかったようです。
当初警察では犯人の目星が全く付いていませんでした。ですので、地方から修行で京都に来ていた、住み込みの徒弟僧侶を片っ端から尋問していったそうです。そして容疑者が割り出せない警察は捜査の範囲を広げ、高齢のお坊さんまでもが西陣警察署に連行され、長時間に渡って尋問されています。
そんな状態でしたので、早々に犯人が逮捕され関係者の皆さんはほっとしたことでしょう。
再建計画、そして牛車の行列が…
事件的には解決に向かっていましたが、金閣寺に関係する皆さんは、早急の再建を求められ、頭を悩ませていました。しかし炎上後しばらくしてから、再建のための寄付・寄進が多くの経済界や地元財界から寄せられ、再建・建立することになったのです。財政的な計画は立案できたものの、困った事が起こります。それは金閣寺を再建する材料、特に材木が近隣にないことでした。しかし結局、昭和29年(1954)に何とか棟上げまでこぎつけます。難航した材木の手配は、全国各地から買い集め、二条駅まで貨車で運んだのでした。
この頃はトラック等があまりなかった時代です。ですので二条駅で降ろした材木は、牛車に乗せて千本通りをゆっくりと金閣寺に向かって進んだのです。
京都をご存知の方なら分かると思いますが、千本通りから金閣寺に向かうと丸太町から少しずつ上りがきつくなっていきます。そして今出川を越えて鞍馬口通りからは急勾配になるんですよね。千本北大路まで行くと東寺の五重塔の最高部と同じ高さになるんですよ。
牛車は五重塔の高さの千本北大路を左に曲がり、北大路通りを西に向かって進みます。そして紙屋川手前の坂を下れば、ようやく金閣寺に到着。この材木を積んだ牛車の列が、千本通りを行進していく光景は、当時の大きな話題になったほどなんですよ。
困難を乗り越えて再建に
入手が大変だったのは材木だけではありませんでした。他の材料では、特に金箔を材木に接着させる漆も貴重品で入手困難だったものの一つです。結局国産の漆を手に入れることができず、外国から輸入することになるのですが、当時の国際情勢下では相当に大変だったようです。とにかく幾多の困難をも乗り越えて再建が叶った金閣寺。今では、国内だけでなく海外からも多くの観光客が訪れていて、当時の炎上の面影は見られません。おそらくほとんどの観光客の皆さんが、目の前の美しい金閣寺が放火されて焼失し、一時は廃墟のようになっていたことを知らないでしょう。現在の金閣寺舎利殿は、炎上後に再建されたということで、国宝には指定されていないんです。
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