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吉田松陰の「真の同志」で弟子だった入江九一と野村和作兄弟

 長州藩の萩城下に、「松下村塾」という小さな私塾がありました。指導者の名は吉田松陰で、その教え子には高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文といった偉人たちがいます。ただ、松陰が「真の同志」だと認めた弟子は、その生涯でも数えるほどしかいませんでした。

 その数少ない同志である「入江九一と野村和作」兄弟と松陰との絆をたどってみましょう。

「志士」吉田松陰とその弟子たち

 嘉永7年(1854)、吉田松陰はペリーが再度来航した機会を狙い、一番弟子だった金子重輔とともに密航を企てました。松陰は攘夷思想論者でしたが、「海外に学ぶことは多い」との考えを持っていました。しかし来航はかなわず、密航の罪で投獄されてしまったのです。

 別々の牢に入れられた松陰と重輔ですが、松陰は獄中で重輔が亡くなったことを知り、激しく慟哭(どうこく)します。出獄後、松下村塾を開きますが、松陰は心の奥深くで「重輔のような同士がほしい」と思っていたのではないでしょうか。

 松下村塾には、身分の分け隔てなく、さまざまな層から多士済々な若者たちが集ってきました。彼らは日々、松陰や仲間同士で議論を重ね、切磋琢磨し、影響を受け合ってきたのです。そのなかに、入江九一と野村和作(靖)がいました。

 足軽の入江家で、九一は天保8年(1837)、和作は天保13年(1842)に生まれました。九一は入江家を継ぎ、和作は親戚の野村家の跡継ぎとなり、二人そろって松下村塾の門人となったのです。九一は、高杉、久坂、吉田稔麿と並び「四天王」と言われていました。

 松陰は、教育者として平穏な日々をおくるつもりはなく、激変する幕末の世にあって志士の血が騒ぐようになり、数々の過激な計画を立案していきます。なかには、老中の暗殺を企図するものもあり、弟子たちも松陰に付いていけなくなってしまうのです。

 高杉や久坂らは「いまは決起の時ではありません。藩の迷惑になるので、自重してください」という手紙を送ります。それに対し、松陰は「私は忠義のために行動するが、彼らは結局何も行動していない」と弟子たちを痛烈に批判します。

「金子重輔は死んでいなかった」

 多くの弟子たちが松陰から離れていったのに対し、九一と和作は「松陰と行動を共にする」ことを選択します。獄中にいる松陰に代わり、和作は京都に出て、計画実行のために奔走しますが、獄につながれて国元に送り返されました。

 和作の行動を知った松陰は手紙を綴ります。その志がよほどうれしかったのでしょう。そこには「私は今初めて、あなたという同志をみつけました」と書かれ、さらに「金子重輔は死んでいなかった」と、感激ぶりを率直に書き記しています。

 松陰にとって重輔は、忘れがたき大切な同志かつ友人でした。そんな重輔に匹敵する同志だと、和作は認められたのです。「金子重輔は死んでいなかった」との言葉は、和作にとって最大級の賛辞だったでしょうし、感涙したに違いありません。

 松陰は獄中の九一にも手紙をしたためています。「自然説」という書簡では、冒頭で「子遠子遠、憤慨することはやめよう」(子遠は九一のこと)と記し、自らに言い聞かせるように「今の自分たちの境遇を自然体で受け止めようではないか」と諭しています。

 安政の大獄で、吉田松陰が刑場の露と消えたのは安政6年(1859)10月でした。後を追うかのように、入江九一は元治元年(1864)の禁門の変で戦死します。野村和作は激動の幕末を生き延び、明治の新しい世を迎えられたのです。

おわりに

 吉田松陰が、処刑前に獄中で書いた留魂録の中に、入江九一に「尊攘堂」の設立計画を進めるよう呼びかける一文があります。自分の志を引き継いでくれるのは九一しかいない、という松陰の遺言であり、九一への絶対的な信頼をうかがわせます。

 野村和作は、明治になって松陰の功績を後世に残すため、著述物の出版や編さん作業に没頭します。それが、同志であり、弟子だった自分の役割だと考えたのでしょう。和作は明治42年(1909)に亡くなり、遺言により東京の松陰神社に葬られたのです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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