「前原一誠」吉田松陰の愛弟子は、小説『紺碧の艦隊』のキャラクターのモデル!?最後は士族反乱で挙兵し、兄弟や同志ともに処刑された、元兵部大輔

前原一誠の肖像(北海道大学附属図書館北方資料室所蔵品、出典:wikipedia)
前原一誠の肖像(北海道大学附属図書館北方資料室所蔵品、出典:wikipedia)
幕末明治の争乱の中で、特に活躍したのが吉田松陰の弟子たちです。かつて高杉晋作や久坂玄瑞を並べ、明治維新後の日本の一翼を担った人物がいました。兵部大輔を務めた前原一誠(まえばら いっせい)です。

一誠は若い頃に落馬して足に障害を持ち、コンプレックスを抱えて生きていました。そんな一誠を変えたのが吉田松陰でした。松蔭の薫陶を受け、一誠は勉学に精励。長州藩内でも次第に頭角を表すようになっていきます。長州征伐や会津戦争で勝利に貢献し、明治新政府では参議の一人として政治決定に関わる立場となりました。

しかし兵制改革において政府内で孤立。やがて下野して国許に帰る道を選びます。士族反乱が頻発すると、一誠は武力蜂起を決意。かつての同志たちと刃を交えることとなるのです。

一誠は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。前原一誠の生涯を見ていきましょう。

吉田松陰の愛弟子

長州藩士の子として生まれる

天保5(1834)年、前原一誠は長門国土原村で長州藩士・佐世彦七の長男として姓を受けました。母は末子です。

佐世氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む家柄です。遠い先祖の戦国武将・佐世清宗は、尼子家や毛利家に仕えたこともある武士でした。いわば一誠の家は、江戸時代を通じて代々毛利家に仕えた、れっきとした武士の家だったわけです。

父・彦七は大組に所属し、47石を知行する武士でした。藩内において決して大身ではありませんが、順調に行けば一誠もそれなりの武士として生きていける境遇でした。天保10(1839)年には父が厚狭(あさ)郡の郡吏に任命されて、一誠も同地に移住しています。

早い時期から学問に興味を抱いていた一誠は、弘化3(1846)年に萩に出て学問を学び始めます。しかし翌弘化4(1840)年には、厚狭郡に戻って農業や漁業に従事。働きながらの身では、学問に携われる時間は少なかったようです。

吉田松陰の弟子へ

そしてまだ若かった一誠に試練が訪れます。嘉永3(1850)年ごろ、一誠は乗っていた馬から落下し、脚に怪我を負ったことが原因で歩くことが遅くなってしまいます。当時17歳だった一誠が、強いコンプレックスを抱えたのが想像できます。

一誠が変わったのは、吉田松陰との出会いでした。安政4(1857)年、吉田松陰が主催した私塾・松下村塾に入塾。幕末を代表する錚々たる松蔭の弟子である高杉晋作や久坂玄瑞の知遇を得ています。さらに松蔭は一誠を高く評価しており、「八十(一誠の前名)は勇あり智あり、誠実人に過ぐ」との言葉を残しています。

松下村塾
現存している吉田松陰の私塾・松下村塾(山口県萩市)

一誠も松蔭を生涯の師と仰ぎ、勉学に打ち込んでいきます。しかし翌安政5(1858)年、師・松蔭は幕府によって捕縛されてしまいます。松蔭の捕縛は、安政の大獄に連座したものでした。その後、松蔭は江戸に護送されて処刑されてしまうのです。

長崎に遊学

一誠からすれば、どれほど悲憤慷慨したかは想像に堪えません。その後、師に応えるためか、一誠はより学問に打ち込んでいきました。

安政6(1859)年、一誠は長州藩内の選抜に合格し、長崎への遊学が許可されます。長崎では藩の西洋学所に入門。西洋知識を吸収する機会を得ています。しかし翌万延元(1860)年、発病したことで挫折。国許に帰ることになりました。


尊王攘夷派として討幕の最前線へ

やがて尊王攘夷運動に身を投じる決意をします。文久2(1862)年に長州藩を脱藩。久坂らと直目付・長井雅楽の暗殺を計画します。

長井は長州藩内屈指の開国派であり、「航海遠略策」を提唱。朝廷と幕府を結ぶ公武合体運動を推し進めるなどしています。幕府老中・安藤信正や久世広周らとも繋がり、尊王攘夷派とは対立関係にあった人物です。

もし藩の重役である長井を襲撃すれば、ただでは済まなかったことでしょう。このときは長井が失脚してのちに切腹したことで、一誠は手を下さずに済んでいます。


長州藩の藩政を奪回する

文久3(1863)年、一誠は帰藩します。脱藩は重罪でしたが、当時の長州藩の藩政は尊王攘夷派が握っていたため、大した罪には問われなかった様です。

同年には右筆役となり、藩主側に近侍する立場となりました。さらに都落ちした三条実美らに随行して七卿方御用掛を拝命。藩内を代表する尊王攘夷派の一人として立場を固めていきます。

しかし元治元(1864)年、藩内の尊王攘夷派に激震が走ります。6月に京都池田屋で多数の尊王攘夷派が新選組に捕殺されるという事件(池田屋事件)が起きました。藩論はにわかに沸騰し、来島又兵衛らは京都へ進撃。幕府や会津藩に敗北する事態(禁門の変)に発展しています。


その後、長州藩は朝敵に指定されてしまいます。御所へ砲撃したことや藩主の命令書が発見されたためでした。やがて藩内の尊王攘夷派は一掃され、再び俗論派(幕府に恭順しようとする保守派のこと。)が政権を握ります。

しかし一誠はまだ諦めていません。ほどなくして、高杉晋作らとともに下関で挙兵。尊王攘夷派を糾合して俗論派を打倒することに成功。戦後には用所役右筆を拝命しました。さらに干城隊の頭取も務めるなど、一隊を率いる立場となって、討幕活動に関わることになります。

長州征伐で小倉藩の降伏に尽力

運命をかけた勝負がすぐそこまで迫っていました。慶応2(1866)年、幕府は第二次長州征伐を決定。十数万の大軍が長州藩領に攻め込んで来ることになります。

並大抵の戦であれば、一方的な結果で終わるほどの戦力差です。しかし一誠たちには、確たる勝算がありました。士気の高さはもちろん、藩内には多くの兵に新式銃が配備されています。一誠は小倉口に参謀として出陣。戦に勝利した後は小倉藩の降伏にも尽力するなどしています。

幕府は長州征伐の失敗によって失速、翌慶応3(1867)年10月には将軍・徳川慶喜が大政奉還を断行。260年以上続いた江戸幕府は終焉を迎えたのです。

二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)
二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)

明治新政府で要職を務める

戊辰戦争

明治新政府の樹立後も一誠らの戦いはまだ終わりません。慶応元(1868)年1月から始まる戊辰戦争では、一誠は北越に出陣。河井継之助らを相手に長岡城攻略を繰り広げています。

長岡攻略後、一誠は会津に転戦します。越後口総督の参謀を拝命し、かつての仇敵である会津藩と対峙しました。しかし一誠の中には、憎しみという感情はありません。籠城して抵抗する会津藩に対し、「胸中に一点の風味あるに似たり」と述べて会津武士の精神性を高く評価していました。最前線で戦う一成だからこそ、相手の気持ちを汲むことができたのかも知れません。

越後府判事、参議、兵部大輔への任官

同年の9月には、新潟府判事を拝命。民政を預かる立場となります。このときに信濃川の治水工事を開始。さらに困窮農民の年貢を半減するなど、あくまで民衆の暮らしを優先した政策を実行しています。

一誠の働きは、明治新政府でも大きく評価されています。中央政治においては参議を拝命。西郷隆盛や木戸孝允らと並び、政治上の重要事項に関わることが許されました。

明治2(1869)年には兵部大輔・大村益次郎が暗殺され、以降は一誠が兵部大輔を兼任することとなります。人柄や能力は勿論、一誠の前線での経験が考慮された結果でしょう。

政府からの下野

明治3(1870)年には、賞典禄600石賜ります。維新の功績をはじめ、一誠の前とは揚々としたものだと誰もが思っていたはずです。しかし一誠の行動は波乱を呼ぶこととなります。

兵部大輔就任後、一誠は兵部省への出仕が少なくなり、同省の動きが停滞しはじめました。他の役職との兼任ですから、時間的制約を受けるのは仕方がありません。問題は前任者の大村の方針に異議を唱えたことです。

大村益次郎は「国民皆兵」の方針を掲げ、徴兵令の施行を目指していましたが、一誠はこれに反対を表明。結果、これが起因となって同郷の木戸孝允や山縣有朋とも対立してしまいました。同年、一誠は病を理由に公職を辞任し、故郷の萩に帰国しています。


萩の乱で挙兵し、兄弟共に処刑される

一誠は急進的な改革を急ぐ政府に危機感を覚えていました。抱いた危機感はやがて現実のものとなり、明治政府内で噴出することとなります。

明治6(1873)年、征韓論を巡って政府内で意見が対立。西郷隆盛ら多くの参議が下野するという事件が起きます。世にいう明治六年の政変です。既に全国では不平士族らが決起の時を待つという状況でした。そして明治7(1874)年、ついに佐賀の乱が勃発。一誠のいる萩も他人事ではいられなくなります。

一誠は山口県令から、動揺する不平士族を鎮めるように要請されます。しかし一誠自身、既に政府に対して強い不満を持っていました。佐賀の乱は鎮圧されますが、不平士族の乱は続きます。明治9(1876)年には、福岡で秋月の乱、熊本で神風連の乱が勃発。反乱の火は、確実に広がりを見せていきました。

しかし政府は秩禄処分を決定。士族に対する秩禄を全廃するという処置が取られます。当然、士族たちの不満は頂点に達しました。このとき、既に一誠は決意を固めていたようです。

明治9(1876)年、一誠は弟たちやともに下野した奥平謙輔らと挙兵。不平士族を糾合して萩の乱を引き起こします。しかし明治政府軍に鎮圧。一誠や奥平らは直訴を目指して東京を目指して船を出しますが、通報によって島根県で捕縛されてしまいます。

12月、一誠らは萩において斬首に処せられました。享年四十三。墓所は萩の弘法寺にあります。

おわりに

辞世は「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」と伝わります。

一誠は、長らく明治政府に逆らった賊徒として扱われていました。しかし大正5(1916)年、生前の働きが認められて一誠に従四位が追贈。名誉回復がなされています。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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